『アルマイト弁当箱』

『アルマイト弁当箱』 江戸時代まで弁当容器として使われていたのは、曲げ輪っぱとか、竹やイグサを利用した行李などだ。軽くて丈夫なアルミニウムが使われるようになったのは、明治中頃から。更にその後、アルミニウムの表面を酸化アルミニウムの被膜で覆う…

『真空管ラジオ』

『真空管ラジオ』 家庭の娯楽の主体は真空管ラジオだった。『私は誰でしょう』『とんち教室』『向こう三軒両隣』『二十の扉』『三つの歌』…。 『三つの歌』は、前奏を受けて三曲すべて歌い切れば合格という趣向の聴視者参加番組。ある時、テンポのよい前奏曲…

『お手玉』

『お手玉』 お手玉遊びの歴史は古く、鎌倉時代にはすでに一般的になっていた。 お手玉は駄菓子屋でも売られていたが、大概の子のお手玉は、お母さんやおばあちゃんの手づくりだった。もちろんその方が「自分のために作られた自分だけのもの」という思いがあ…

『縁台将棋』

『縁台将棋』 ぼくらの世代の父親たちは、仕事の帰りが早かった。通勤が徒歩であったり自転車だったりと、多くが職住接近だったからだ。夏は、帰宅して風呂なり行水なりでサッパリしてからでもまだ明るい。そんなときに始まるのが縁台将棋。 縁台将棋に付き…

『越中ふんどし』

『越中ふんどし』 猿股が市販されるまで、ふんどしは男の下半身を覆う唯一の下着であった。猿股時代になってからも越中の愛用者は居て、ぼくの仲人もそうだったし、職場の先輩の中にも越中派は何人かいた。扱いは簡単だし、風通しが好く壮快だし、洗濯も簡単…

『めんこ』

『めんこ』 めんこの始まりは、江戸時代に粘土を焼いて作った『泥めん』。泥では壊れやすいというので、明治に入り『鉛めん』が登場した。ところがその鉛めん、鉛中毒が問題化して発売禁止に。そこから『紙めん』の登場となった。 『紙めん』が最も流行った…

『氷冷蔵庫』

『氷冷蔵庫』 昭和28年を俗に「電化元年」と呼んだ。その時点での電気冷蔵庫の普及率は10パーセントそこそこ。主役の座にいたのは氷冷蔵庫だった。 氷冷蔵庫は上下に扉がある木製。上の扉に氷を入れ、下の扉に食品類を入れる。こうすることで湿った冷気…

『赤電話』

『赤電話』 タバコ屋・薬屋の店先に置かれていた黒電話が、昭和二十八年から順次赤電話に切り替えられた。利用料金は一通話十円。安いようだが、十円あれば電車にも乗れたわけだから、どうでもいい話に使ったのでは安くない。だけど時間制限が無かったわけだ…

『姉さんかぶり』

『姉さんかぶり』 掃除はもとより、洗濯、裁縫、綿入れ仕事…と、家事全般にがんばる〝主婦の勤労帽〟とでも言うべき「姉さんかぶり」。その姿を見るにつけ「ああ、働くお母さんっていいな」─みたいな気持ちが無意識の中で、誰の心にも蓄積されたと思う。 「…

『焚き火』

『焚き火』 ♬垣根の垣根の曲がり角 焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き♬ 教科書にも載っていた童謡の『焚き火』。焼き芋を焼いたり栗を弾かせたり…と、初冬の焚き火は子どもたちに暖を取る以外の楽しみも与えてくれた。 屋外で働く大人たちの多くも、冬場は焚き火…

『ラムネ』

『ラムネ』 独特の形状をしたラムネは、見た目もいいし手触りもいい。飲んでも清涼であるところから、長らく夏の風物詩として親しまれた。 イギリスで開発されたこのビン密閉方式は、ビンも栓もすべてリサイクルに回せるリターナブル容器(再利用)。地下鉄…

『竹とんぼ』

『竹とんぼ』 ぼくたちの筆箱には、大抵〝肥後の守〟と呼ばれる小刀が入っていた。鉛筆を削るためだが、遊びにも使った。竹笛、割り箸ピストル、弓、パチンコ、ザリガニ釣りの笹竿…と、遊びの道具づくりに肥後の守は欠かせなかった。 竹とんぼも作った。竹を…

『紙芝居』

『紙芝居』 紙芝居は、トーキー映画の出現で活弁の職を追われた弁士たちが生み出した日本独特の演芸である。 ぼくたちのホームグラウンド(遊び場=神社の境内)には、毎日二人の紙芝居屋がやって来た。一人は拍子木で子どもを集め、もう一人は太鼓で集めた。…

『置炬燵』

『置炬燵』 寒い冬も、ぼくたちは外で遊んだ。遊んでいる時も寒かったはずだが、厳寒の記憶はあまりない。躍動の遊びに夢中だったこともあるだろうけど、どこへ行っても全館暖房など無い時代。ある程度の寒さには慣れっこだったということだろう。 それでも…

『街頭テレビ』

『街頭テレビ』 テレビは昭和二十八年二月にNHK、同八月に日本テレビが相次いで開局した。当初の価格は二十一インチ三十五万円。サラリーマンの平均月収一万五千円程度、東京─大阪間の国鉄運賃は三等で六百八十円の時代だから、買える人は限られていた。…

『七輪』

『七輪』 太陽が西の空で赤みを帯び出すと、広場で遊びまくっているぼくたちの影が、分刻みで伸び出す。民家の二階よりも高い建造物は火の見櫓ぐらいだったから、伸び切ったときの分身(影)の頭は、何メートルもの先に達する。 職住接近が当たり前の時代は…

『オブラート』

『オブラート』 オブラートは、苦い薬を包み込んで飲むためと、菓子類のベタつき防止用という二通りの目的で利用された。昔の薬は苦かったから、常備薬を持つ家庭だと、ちゃぶ台から手の届くあたりに大抵オブラートの丸い容器が置かれていた。飲みやすい薬が…

『DDT』

『DDT』 戦後しばらく、ニッポンは蚤や虱の天国だった。 「蚤の夫婦」「蚤の息さえ天に昇る」「蚤の頭を斧で割る」「蚤の小便蚊の涙」「蚤も殺さぬ」─と、故事ことわざへの登場頻度からしても、蚤がぼくたちの生活に身近過ぎる寄生虫であったことが分かる…

『旅芸人』

『旅芸人』 昭和二十年代後期にテレビが登場するまでが、旅劇団(いわゆる「ドサ廻り一座」)の黄金時代だった。 ぼくたちの町にも年に一度ぐらい、初見の劇団が巡って来た。その中に『秋月正二郎一座』というのがあって、有名でもないだろうに、なぜかその…

『蠅捕りリボン』

『蠅捕りリボン』 食品を扱う商店には付き物だった蠅捕りリボン。目立って多かったのは魚屋だ。天井から何本ものリボンが下がり、それを縫って飛び回る蠅たち。ゲームなら最高のスリルだろうが、うっかり触れてしまえば地獄に落ちる。そう思って見ていると、…

『五徳』

『五徳』 「五徳猫」という妖怪がいる。江戸時代の画家鳥山石燕が描いたもので、頭に五徳を冠し、火吹き竹で囲炉裏の火を熾している二本の尾を持った猫のこと。地味に見える五徳だけど絵の題材となったのは、その当時、火回りの主役だったからだろう。 五徳…

『学校給食』

『学校給食』 東京を含む八大都市で小学児童を対象とする完全給食が実施されたのは、昭和二十五年七月。全国にまで拡大されたのは二十七年四月から。「コッペパンに脱脂粉乳、おかずとしては鯨肉」というのが、当初のぼくたちの定番だった。 脱脂粉乳が飲め…

『あやとり』

『あやとり』 毛糸や紐を輪にして両手に掛け、指を入れたり外したり…。一人でも二人でも遊べるあやとり。青森では「とりあげ」、三重では「しずとり」、関西では「いととり」、和歌山や鹿児島では「いとかけ」と言うそうだ。 「平安時代から伝わる遊び」と聞…

『君の名は』

『君の名は』 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」 小学生には難解なナレーションだったが、番組の凄さは知っている。これが始まると、壁一つ隔てた女湯が妙に静まり返ったものだ。 空襲の夜、後宮春樹と氏家真知子は数寄屋橋…

『BCG』

『BCG』 長い間、ぼくは注射に対して「肉体に鉄の管を突き射す野蛮極まるもの」という敵意を抱いていた。注射のたびに泣き出す子がクラスにいて、そういう子を笑うことで、ぼく自身に襲いかかる恐怖を何とか凌いでいたのである。 その注射恐怖派にとって…

『火の用心』

『火の用心』 「戸締り用心! 火の用心! マッチ一本火事のもと!」カッチ! カッチ! 午後七時には商店の明かりも消え、闇に響く子どもたちの声。正月を前にした冬休み、ぼくたち子ども会も火の用心の夜回りをした。徒党を組むと気分が膨らむ。カッチカッチ…

『ままごと』

『ままごと』 ままごととは、いわゆる「飯(まま)事」だから、台所を預かるお母さんを中心に置いた遊び。陽だまりの庭にゴザを敷き、大抵はお母さん役の子があれこれと仕切っていた。今なら、イクメン役の男の子が仕切ってもよいかも…。 過日、郷愁譚を書く…

『銭湯』

『銭湯』 三年生の末に引っ越した家からは、徒歩七〜八分内に三軒の銭湯があった。その頃まで、ぼくは母に連れられ女湯を利用していた。体格としてその程度の時代だったのか? はたまた、わが家が世間の常識に疎かったのか? 当時の入浴料は、大人(中学生以…

『金魚売り』

『金魚売り』 「きんぎょ〜ぇ きんぎょ〜っ」と、細く涼しげな声でやって来る金魚売り。風鈴のチリンチリンも清涼感を呼び、暑さが一瞬なりとも和らいだ。 金魚は、千年以上も前に中国で作り出された魚である。元祖を辿れば鮒で、これが緋鮒となり、さらに改…

『赤チン』

『赤チン』 赤チンとはマーキュロクロム液のことで、ヨードチンキではない。ヨードチンキが傷薬だった時代の名残りで、色が赤かったことから「赤いヨードチンキ」を略し「赤チン」との俗称になった。 昭和二十年代の児童は、おてんとうさまがある限り、屋外…