『サーカス』

『サーカス』
 日本初のサーカスは、1864年『アメリカ・リズリー・サーカス』による横浜での興行であった。それまでの日本でも曲芸興行は行われていたが、どれも芸種別に一座を組んでの公演だったので、多様な芸を一堂に会したサーカスは大きな反響を呼ぶこととなった。日本人によるサーカス一座は、1899年の『日本チャリネー座』がその最初で、その後、大正末から昭和にかけて、木下大サーカス、有田サーカス、シバタサーカスなどが誕生している。
 サーカスは各地巡回興行で、ぼくの町にもやって来た。その興行が伝えられた時、ぼくたち子どもは緊張した。謂れのない偏見が、ぼくたちを包み込んでいたからだ。親は往々にして重い言葉を軽く言う。例えば「いつまで遊んでいるの! 人さらいにさらわれたらどうするの!」─と。夕闇が迫るころまで遊んでいた子の殆どが、親からこの言葉を聴かされている。それがどんなに恐ろしかったか。「人さらいにさらわれるとサーカスに売られ、毎日酢を飲まされる。そして体がフニャフニャになったところで、厳しい芸を仕込まれる」と言うのである。妻は二十年程前『サルティンバンコ』をぼくと観るまで、「少なからずサーカスを忌避していた」と明かしている。

『野良犬』

『野良犬』
 穏やかな日の多摩川は、奥多摩から運ばれる水がゆったりと、また雪解け季節ともなると、気持ち滔々と流れていた。水際の砂地ではカニが戯れ、小穴を掘るとハゼ釣りの餌となるゴカイが幾らでも手に入った。
 とても気持ちの良い川だったが、時々悲しい漂流物があった。木箱であったり段ボール箱であったり。中に居るのは子猫や子犬だった。大抵は流れの早い川の中央部だったから、多摩川大橋の欄干から見下ろすだけで救助は出来ない。間もなく羽田沖の海に出る。そしてどうなるか? 想像するのも悲しかった。
 岸辺のものは陸に上げたが、その後は野良にするだけのこと。野良犬は狂犬病の危険があるから、絶えず役所の職員によって駆除されていた。針金の輪を首に掛けられキャンキャン鳴き叫ぶ犬。流れて行っても救われても、運命の扉は開かない。
 ぼくは、たまさか救助した漂流箱の犬一匹を家に連れ帰った。親はぼくの懇願を、渋々ながら受け入れてくれた。晴れて家族となった子犬に、ぼくはエスと名付けた。なぜエスにしたかは覚えていない。エスはたった一年で、鼻から膿を流して死んだ。泣きながら庭に穴を掘って埋めた。ぼくにとって最初の家族の死。忘れられない。

『野外映画会』

『野外映画会』
 夏休み中の昼下がりの校庭に、二本の長いポールが運び込まれる。ぼくはこの時点からワクワクし始める。ポールに白い布幕が張られ、それが校庭の中央に立つ。映画のスクリーンだ。この主催の主がどこだったかは忘れたが、夏の夜の野外映画会は毎年行われた。
 上映作品は、二流館から三流館を隈なく廻って来たと思われる、相当古いものが多かった。多分、只か只同然で借りて来た作品群だったのだろう。雨かと思うほどのキズがあったり、時にはフィルムがプッツリ切れることもあった。そんな時は何フィートか飛ばして上映を再開させるわけだが、見ている方も只見だから、文句も言わずに再開を待った。
 スクリーンは校庭の中央だから、観客の一割ほどは裏から見ていた。ぼくも大抵裏から鑑賞する〝へそ曲がり組〟。裏は空いていて寝そべっても見られるからだが、少し困ることがある。野球の場面ではバッターが打って三塁方向に走り出すし、看板は読めないし、チャンバラは全員が左手で刀を振り回して異様な雰囲気。だけどそんな小さな不都合が、今や想い出の中で〝好都合の味〟となっている。

『赤バットと青バット』

赤バット青バット
 赤バットと言えば巨人の川上哲治青バットと言えばセネターズの大下弘。野球ファンなら誰でも知っていることなのに、そのバットが実際に使われたのは、昭和二十二年の一シーズンだけだった─ということまで知っている人は少ないと思う。
 二人の色付きバットの始まりは、運動具メーカーから川上が赤バットの提供を受けたこと。それを見た大下は、対抗心からか自らのバットに青い塗料を塗った。弾丸ライナーの川上対ホームラン量産の大下。色彩バットの競演はファンを魅了させたのだが、ボールに塗料が付着するとの苦情が審判団から出て、一シーズンの命となった。
 二人の活躍はその後も続いた。ぼくは巨人ファンだったから、現役時代の川上の試合は何度か見ている。川上のファーストミットは他の一塁手のものより小ぶりだった。多分特注だろう。(大選手は、攻守に探究怠りないのだなあ)と感銘の記憶がある。
 昭和三十一年から三年続いたのは、巨人対西鉄という同一カードの日本シリーズ。巨人の四番が川上、西鉄の四番は大下だった。結果は西鉄驚異の三連覇。三年目には長嶋が巨人のルーキーとして登場。それを見届けたように川上はそのシリーズを最後に現役引退。大下も翌シーズンを最後に現役から退いた。

『野原の子どもたち』

『野原の子たち』
 ぼくたちが野原に立つと、誰からともなく子犬のようにジャレついて、転がし合うのが常だった。野は絨毯のように柔らかく、赤チンの要らない遊び場だった。
 女の子たちは、咲き誇るレンゲソウの花の中に身を埋め、首飾りを編んでいた。シロツメグサの茎を連ねた花冠も作っていた。幸運を呼ぶという四つ葉のクローバーを、必死に探している子もいた。
母は毎年春がやって来ると、ヨモギの新芽を積んで草餅をつくってくれた。つくしん坊やわらびも、春の食卓には載った。今に残る母の味だ。
 時代はコツコツ廻って六十年。野原の子たちは消えてしまった。
 先日、同世代の仲間三人で那須岳経由・南月山に登った。山頂で仲間持参のウイスキーをカチンと合わせたら、たまたま通りかかったこれまた同世代と思える御仁が、「おや、お祝いですか?」と問う。「ええ、ぼくの誕生日の前祝いです」とぼくが答えたら、御仁、リュックから自身が採取して作ったという四つ葉のクローバーのしおりを取り出し、「では、幸運をあなたに」とプレゼントしてくれた。これ、往年の野に親しんだジイちゃん同士を繋ぐ発想─ということだろうか。有り難く頂いた。

『ホーローの看板』

『ホーローの看板』
 ホーローの看板と聞いて大抵の人の頭に浮かぶのは、塩とたばこの看板ではないだろうか。子どもの頃、それを避けては通りを行き交えないほど、視野の一部を賑わしていた。それもその筈、塩とたばこは、今のようにどこからでも入手できるものではなかった。大蔵省専売局(昭和二十四年に公社化し日本専売公社となる)がその専売業務を独占していて、買える店が限られていたからだ。
 昭和六十年、専売公社のたばこ独占製造権と塩の専売権は新設の『日本たばこ産業(JT)』に継承され、その際、外国たばこの輸入・販売が自由化され、平成九年には塩の専売権もなくなった。だけど、長年の中で脳裏に焼き付いた二つのホーロー看板(青地に『塩』と、赤地に『たばこ』の白抜き文字)は、忘却の中に霞むことがない。
 地方に足を延ばすと、一時代にとどまっている〝生き残り看板〟に出会うことがある。水原弘の『ハイアース』、由美かおるの『アース渦巻』、松山容子の『ボンカレー』、浪花千栄子の『オロナミン軟膏』、大村崑の『オロナミンCドリンク』…。
 時代はゴロリ、ゴロリとゆっくり転んだ。それがこのごろゴロゴロと、音をたてて転がっている。アクセルばかりの踏み競争。ぼくにはとても危うく見える。

『てるてる坊主』

『てるてる坊主』
 運動会や遠足の前日の空を雲が覆うと、子を持つ家々の軒先に、白いてるてる坊主がぶら下がった。翌日の晴天を祈念するわけだが、雨の予報が出ている時ほどそうするものだから、頼まれる側のてるてる坊主は、「間尺に合わない」と、ブツクサ嘆くことだろう。いや、嘆くどころではないかも…。『てるてる坊主』の歌をご存じか。1番では「いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ」、2番では「わたしの願いをきいたなら 甘いお酒をたんと飲ましょ」と言っておきながら、3番で「それでも曇って泣いたなら そなたの首をちょん切るぞ」と恐喝しているのである。
 大正時代に作られた歌だが、「怖すぎる」ということで、3番はカットすることが多いと聞いた。だが童話に限れば、グリム童話は言うに及ばず、『人魚姫』『三匹の子ブタ』『舌きり雀』『耳なし芳一』…語り継がれる名作の多くが残虐性を含んでいる。
 ぼくたちの遊びにおいても、トンボの羽根をもいだり、カエルのお腹に空気を送り込んだり、残酷経験幾多である。〝悪〟を知らない真水の幼魚が、その将来において〝善〟に生きる心を持つだろうか? 現代社会全体は、今、残酷へと向かっていないだろうか? てるてる坊主を吊るして、あしたの晴れた社会をお願いしたい。