『ポン菓子』

『ポン菓子』
 昔のぼくたちは、音に対して敏感で、一音節で聴き分けた。「チリン」と来たら金魚屋だし、「カラン」と来ればアイスキャンデー。「カチッ」と鳴ったら紙芝居、「チンチンドン」はチンドン屋。「ド〜ン」と来たらポン菓子である。
 ポン菓子とは、米やトウモロコシなどに圧力をかけ、それを一気に減圧することで膨らませた駄菓子のこと。「ポン菓子」とか「ドン菓子」と呼ばれたようだが、ぼくたちは「バクダン」と呼んでいた。そして、この「ド〜ン」が聴こえると、ぼくは、おカネも無いのに広場(空き地)に走った。おカネのある子は、米やトウモロコシを持って来る。そこに居るのは、穀類膨張機を操るおじさんだ。
 おじさんは、子どもたちが持参した米などを筒状の圧力釜に入れ、釜を回転させながら加熱する。釜の中が加圧されたら、釜のバルブをハンマーで叩く。これで釜は一気の減圧。米などの水分は膨張し、「ド〜ン」の爆裂音を伴って、網の中に吹き飛ぶのである。ずっと居ると、お裾分けが大抵貰えた(親には内緒)。
 ポン菓子は今でもスーパーなどで売っているが、広場からは消えて久しい。大きな音は、平成の世には戻れない。保育園もいけないらしい。

『ヘップバーン刈り』

『ヘップバーン刈り』
 昭和二十九年の夏、日本列島の若い女性の髪形が一気に変わった。その年の四月に映画『ローマの休日』が公開され、アン王女を演じた新人女優オードリー・ヘップバーンのショートカットに魅了されたのだ。ある銀行では、十八人の女性行員中十二人が、ある朝一斉にヘップバーン・カットで出社したそうだ。「みんなでやれば怒られない」と示し合わせての行為だった。
 前年の「真知子巻き」もあったから、ぼくは流行に乘る女性たちを少し引いた目で見ていた。だがオードリーの写真を見て気を誘われた。茶目っ気の中、どこか愁いを帯びた美しさ。床屋の待合で見た雑誌『明星』の写真から、目を放すのが容易でなかった。だけど彼女の真の魅力を知ったのは、それからずっとあと。晩年の彼女は、飢餓で苦しむ子供たちのために情熱を注いだ。残した幾多の言葉も心に染みる。
「魅力的な唇のためには、優しい言葉を紡ぐこと。愛らしい瞳のためには、人々の素晴らしさを見つけること」
「スリムな体のためには、飢えた人々と食べ物を分かち合うこと。豊かな髪のためには、一日一度、子どもの指で梳いてもらうこと」etc.

『チンドン屋』

チンドン屋
  ♪空に囀る鳥の声 峰より落つる滝の音 
     大波小波と滔々と 響き絶えせぬ海の音
 チンドン屋の定番曲『美しき天然』。清くして悲し気な旋律が、小学生のぼくを惹きつけた。見えない糸にぼくは挽かれ、町内グルグルついて回った日々がある。
 チンドン屋の歴史は江戸後期に遡る。大阪の飴売り商人が、鳴り物と口上による寄席の呼び込みを請け負ったところ、想定を超えての大評判。ここからチンドン屋が誕生している。最盛期はパチンコ店の 開業ラッシュに沸いた昭和二十〜三十年代。全国で3000人ほどがチンドンで生計を立てていた。
旧来は、鉦と太鼓を組み合わせたチンドン太鼓に、ゴロス(大太鼓)と三味線を加えた三人編成が基本だったが、洋楽器も参入して楽器構成が多様化して行く。扮装も伝統的な股旅姿やピエロへの拘りがなくなり、ド派手なコスプレも登場する。
 やがて、宣伝カーが街を走るマスの時代。チンドン屋は「過去の職業」へと追いやられる。だが消滅してはいない。全国現存のチンドン業者が集まる『全日本チンドンコンクール』は現在も毎年富山市で開催されていて、若者の新規参入もあるとか。

『サンドイッチマン』

サンドイッチマン
  ♪ロイド眼鏡に燕尾服 泣いたら燕が笑うだろう 涙出たときゃ空を見る…
 昭和二十八年に鶴田浩二が唄ってヒットした『街のサンドイッチマン』。道化の陰に隠されている哀しさが、聴こうとする耳に、ジワリ染み入るような歌だった。それもその筈この曲には、元連合艦隊司令長官高橋三吉大将の子息が、生活苦から銀座でサンドイッチマンをしていたという実話(昭和二十三年)が下敷きとなっていたからである。♪この世は悲哀の海だもの…。♪笑って行こうよ影法師…。
 体の前後を広告看板で挟んだサンドイッチマンは、戦前にも居たが、その名を全国に知らしめたのは銀座のサンドイッチマン(右・子息とは別人)だと言われている。『モダン・タイムス』のチャップリンの扮装でおどけたら、これが想定超えの大当たり。人垣に次ぐ人垣を生み一気に全国版となったそうだ。
 サンドイッチマンの全盛期は昭和二十六〜二十七年頃。三十年代に入ってからも、東京には五百人ほど居たそうだが、広告エリアの拡大化で数を減らし続けている。
 今、猛暑日の街角で『モデルハウス展示中』などの告知を手に佇む人が居る。あれも一種のサンドイッチマンか。何となくだけど、ぼくは尊敬の念を交えて見る。

『雑巾がけ』

『雑巾がけ』
 雑巾がけとは、雑巾で拭き掃除をすることであり、比喩的には、下積みの苦しい作業や経験を指したりする。その比喩をぼくたちは頷く。学校の掃除当番で一番辛かったのが、冬の教室の雑巾がけだったから。 
 教室の机と椅子を後ろに押しやり、冷たい雑巾で床をドドドーッと拭き走る。黙々ではつまらないから「よーい、ドン!」と競争すると、「もっと丁寧にやれ!」と先生が仰る。手は後ろに回したまま口で言うだけ。山本五十六とは違って、手本を見せたりすることはない。面白くないから死角に廻って手を抜いていたら、主婦づらした女の子に、「さぼるな!」と箒で尻を叩かれた。
 それも今では尊い想い出。これからはどうか? 校内には暖房があり、モップがあり、家庭内においては、UFOみたいなやつが部屋中孤独に駆け回り、クルクル掃除を代行している。
 名刹はどこも百年千年の歴史を持つ。小僧さんたちが、営々雑巾がけをし続けて来た手柄でもある。 ネットに「毎日雑巾がけをすると、三十六日間で一キロ痩せる計算ですよ」と書き込んであった。これが雑巾がけの効用に対する今風の視点。

『蠅たたき』

『蠅たたき』
「ウルサイ」を「五月蠅い」と書く。当て字も甚だしいが、それほど甚だしくうるさかったのが、初夏に向かって繁殖中の蠅だった─ということだろう。ちゃぶ台におかずが運ばれた瞬間から、蠅はどこからか必ず出現する。いや、「どこから…」と詮索することもない。当時は、どの家の便所も汲み取り式だったのだから。
 蠅の飛翔能力は昆虫類の中では非常に高い部類だそうだ。例えば、空中に固定してとどまるホバリングや、高速での急激な方向転換なども敏捷にこなす。
 その能力者が赤痢菌、サルモネラ菌コレラ菌、ポリオなどの極悪菌を惜しげもなく配達して廻るわけだから厄介だ。重ねて厄介なのは、ヒトや動物の涙、唾液、傷口からの浸出液などが、彼らにとっての貴重なタンパク源であること。以前、オーストラリアの原住民保護区に行った時、何人もが同じ黒ぶち眼鏡をかけていると思ったら、目の周りがびっちり蠅だった。タンパク貪り喰いの図である。
 それほどまでにしたたかな蠅も、都会の家々からは姿を消しつつある。文明の力だ。文明は嫌なものを次々と消す。有難いと思う反面、嫌なものを葬ることに慣れてしまう人間について、それが〝良たる幸せ〟なのかと、ふと考えることもある。

『量り売り』

『量り売り』
『浪花恋しぐれ』の春団治が「酒や酒や酒買うて来い!」と怒鳴ると、女房は仕方なく信楽焼きの徳利を持ち、酒せいぜい三合ほどを買いに行く。わが家の父は下戸ゆえそんな憂き目と無縁だったが、当時は酒に限らず、味噌、醤油、佃煮、乾物、多くのものが量り売りだった。魚にしても、切り身だろうと一尾だろうと、まずは量って「なんぼ」の世界だった。
 今は何でも数量パック。「塩五十グラム」とか「小麦粉百グラム下さいな」みたいな買い方が出来ない。大量生産大量処理の時代だから、一々量って売っていたのでは、手間が掛かり過ぎるという理由らしい。
 売り手が手間を惜しむのは最もかも知れないが、買い手が見た目ばかりのパッケージを好むのは残念でならない。見た目を支えているのが、多くの場合、「資源の無駄」や「環境破壊」だからである。不愉快なのは目覚ましの電池が一本でいいのに、それが買えない。パソコン・インクが一色だけが欲しいのに、それもダメ。メーカーがバラ買いをさせないのだ。そんなの理に適わない。文明とかいうものは、便利追求の顔をして、昔は有った一途な客向け魂を、パチンパチンと潰していないか?