『蠅たたき』

『蠅たたき』
「ウルサイ」を「五月蠅い」と書く。当て字も甚だしいが、それほど甚だしくうるさかったのが、初夏に向かって繁殖中の蠅だった─ということだろう。ちゃぶ台におかずが運ばれた瞬間から、蠅はどこからか必ず出現する。いや、「どこから…」と詮索することもない。当時は、どの家の便所も汲み取り式だったのだから。
 蠅の飛翔能力は昆虫類の中では非常に高い部類だそうだ。例えば、空中に固定してとどまるホバリングや、高速での急激な方向転換なども敏捷にこなす。
 その能力者が赤痢菌、サルモネラ菌コレラ菌、ポリオなどの極悪菌を惜しげもなく配達して廻るわけだから厄介だ。重ねて厄介なのは、ヒトや動物の涙、唾液、傷口からの浸出液などが、彼らにとっての貴重なタンパク源であること。以前、オーストラリアの原住民保護区に行った時、何人もが同じ黒ぶち眼鏡をかけていると思ったら、目の周りがびっちり蠅だった。タンパク貪り喰いの図である。
 それほどまでにしたたかな蠅も、都会の家々からは姿を消しつつある。文明の力だ。文明は嫌なものを次々と消す。有難いと思う反面、嫌なものを葬ることに慣れてしまう人間について、それが〝良たる幸せ〟なのかと、ふと考えることもある。