『裁縫』

『裁縫』
 ぼくと同世代の友人らに、「子どもの頃に見た母親の日常の一コマを写真に残すとしたら、どんなシーン?」と尋ねたら、諸々出たけど、絵になるのは「陽だまりの縁側で裁縫している姿」ということに納まった。
 目を閉じると、そんなシーンが浮かぶ。縁側には座布団。座布団の下に差し込んであるのはくけ台。脇に火鉢。鏝が挿してある。反対脇には針箱。針箱の上蓋を開けると針刺しがあり、各種の縫い針、待ち針が刺さっている。針箱の下は引き出し。中には糸、指貫、ヘラ、握り鋏、褄型など。鯨尺は、ぼくがチャンバラによく使った。
 簡単なほころびの繕いやボタン付けなどでは、今でも針仕事があるだろうけど、当時の量は半端ではない。年寄りは大抵着物だったし、亭主族は仕事から戻ると着物に着替えた。寝間着、綿入れ、炬燵掛け…。どれもこれもが針仕事の対象だった。
 母は縫物の最中、針をよく頭に持って行った。髪の油で針の通しをよくするなんて知らないぼくは、誤って針を頭に刺しはしないか、いつもハラハラ眺めていた。
 裁縫で想い出すのは、わが友M君。クラス一のお大尽で、遊びに行ったある日のこと、ぼくのお尻の接ぎを見て、「ぼくもこれ欲しい!」と大泣きしてお母さんに訴えた。

『ちょうちんブルマー』

『ちょうちんブルマ―』
 ブルマーとは、アメリカの女性解放運動家ブルマー夫人が考案した、裾口にゴムを通したズボン形式の衣服のこと。それを女子用体操着としたものが「ちょうちんブルマ―」である。だぶつきがあって、運動時の可動性を保つためにギャザーあるいはプリーツが付いていた。
 運動会には紅白の鉢巻をキリリと締めて、白いシャツに白い足袋(競争足袋とも裸足足袋とも言った)、穿いているのはちょうちんブルマ―。そんな女の子たちが、ぼくにはとても輝いて見えた。(男子は白い半ズボン。どうということもない)
 だけど「ちょうちんブルマ―」という言葉は、当時まだ無かった。単に「ブルマー」とか「体操着」だったと思う。「ちょうちん」が付いたのは、ぼくたち世代が成人してから。ニット製ブルマーが誕生し、それと区別するために、形状的な特徴からそう呼ぶようになったらしい。
 1969年の東京オリンピックでは、他国がショーツブルマーでプレイする中、日本女子バレーの〝東洋の魔女〟たちは、ダブダブ・スタイルとは言わないまでも、いわゆるちょうちんブルマ―で大躍動、金メダルを獲得した。

『蓄音機』

『蓄音機』
 手でゼンマイを巻いてレコードを回す蓄音機。トーマス・エジソンが蓄音機を発明したのは1877年。自分で発明した機械から音が出たのを初めて聴いた時のエジソンは、飛び上がらんばかりに驚いたという話がある。
 明治二十三年、駐日米大使はエジソン蓄音機を明治天皇に献上している。国産初の蓄音機『ニッポン・ホン』が発売されたのは明治四十三年のこと。
 ぼくは小学校入学直前まで信州に疎開していて、そこでの住まいは母方の祖父が所有する屋敷だった。祖父は株で失敗するまでは相当の資産家だったそうで、幾つもある座敷の戸棚や納戸を引っ掻き回すと、資産家だった名残の品がぞろぞろ出て来た。
 その中の一つが蓄音機。レコードもあったが、就学前のぼくには訳の分からないものが多かった。憶えているものとして、一つは謡曲『石童丸物語』。幼少時別れた父子が、親子の名乗りもなく共に仏に仕えるという哀話だが、当時は何度聴いても解らなかった。自分でゼンマイを回して何度も聴いたのは、高峰三枝子の歌謡曲『湖畔の宿』と、二代目広沢虎造浪曲清水次郎長伝』。『石松三十石船』の中のフレーズ「寿司喰いねえ」や「バカは死ななきゃなおらない」は国民的な流行語となった。

『ガリ版』

ガリ版
 ガリ版とは、正しくは謄写版。ロウ引きの原紙をヤスリ盤に乗せ、鉄筆でガリガリ文字を書く。書き上がった原紙を印刷版に乗せて、上からインクを塗ったローラーを転がせば、原紙の下の紙に印字出来る。ぼくの小学時代、先生たちが作るテストや教材は、すべてガリ版印刷だった。先生たちの黒いアームカバーが目立つようになり、独特のインクの臭いが職員室前に漂い始めると、ぼくはテストを予知して萎えた。
 自分たちでガリガリ作った中学一年時のガリ版刷り文集が、六十余年を経て尚、ぼくの手許に有る。今めくると、時代が見えて可笑しい。
 例えば社会科見学のA君の感想文に、「日比谷の交差点の自動車にはおどろいた。まったく数え切れないほどの自動車だ。よくまあ集まるものだ。いったいどこからあんな自動車が来るのか想ぞうがつかない」とある。これ、東京の生徒の文章だから可笑しい。B子さんは校外教授で大磯に行き、「海についてからの私たち女子はスカートをぬいで、シミーズとブラウスで海に入りました」と書いている。『私の家』というC子さんの作文は、「家の中は三畳と四畳半です。家がなくてガードの下でくらしている人もいる。そういう人を見ると自分はずいぶんぜいたくだと思う」─と。

『囲炉裏』

『囲炉裏』
 囲炉裏は、日本の伝統家屋に欠かすことの出来ない〝火の座〟だった。暖を取る。煮炊きをする。計画停電の夜長は採光を取る。かまどや火鉢への種火も取る。薪から出る煙は、家屋の防虫性や防水性も高めてくれた。何よりの恩義を上げるなら、家族集結の場になっていたということだろう。
 ぼくの疎開先(信州)にも囲炉裏があって、食後の団欒の場になっていた。煤けた天井から自在鉤が下がり、大きな鉄鍋が掛かっていた。鉄鍋の中は主食のすいとん。来る日も来る日もすいとんだったから、これには相当閉口したが、囲炉裏の在る風景だけは、なぜか心に沁みて残る。囲炉裏への愛着は、母や兄にもあったように思う。例えば、川田正子の『里の秋』がラジオから流れ出すと、その場の会話は自然と止まり、全員歌に聴き入っていた。
  静かな静かな 里の秋 お背戸に木の実の落ちる夜は
  ああ 母さんとただ二人 栗の実煮てます いろりばた
『冬の夜』も聴き入る曲だ。
  囲炉裏火は とろとろ 外は吹雪

『自転車の三角乗り』

『自転車の三角乗り』
 三角乗りとは、ハンドルの軸棒とサドルを繋ぐパイプの下の逆三角形の空間に片足を突っ込んでペダルを漕ぐ乗り方。子どもが大人用自転車に乘る場合、普通に跨いだのではペダルに足が届かないから、この乗り方をするしかなかった。
 自転車は高級な乗り物で、どこの家にも有るというものではない。だけど、小学三年のぼくは、何としても自転車に乗りたかった。乘れるようになって、『青い山脈』の杉葉子演じる寺沢新子のように、多摩川の土手を颯爽と走りたかった。
 目を付けたのは父の勤務先の自転車。父は毎日昼食を摂りに戻って来るので、食事中だけという約束を取り付け、三角乗りの練習を始めた。
 当時の自転車はリヤカーを引くのにも使ったぐらいで、その分、ガッシリしていてズッシリ重い。子どもが支えるだけでも大変なのに、尚大変だったのは、逆三角形の空間に店のブリキ看板が取り付けてあったこと。足を突っ込むスペースが下半分だけである。でも、これでやるしかない。母が後ろを支えてくれた。
 一週間後、「わ〜っ、やったやった!」と母が叫んだ。ぼくはヨロヨロと走ってから、赤チンだらけの足を地面にドンと着いてふり返った。最高に幸せな一瞬だった。

『バナナのたたき売り』

『バナナのたたき売り』
 わが町の駅前通りには、毎週土曜日に夜店が出た。屋台、テント、敷物一枚…と、出店スタイルは様々だが、それが駅から左右に百店以上かそれ以下か、とにかく延々連なるのだ。毎週という頻繁なサイクルを考えると、香具師の皆さんにとって、わが町はそれなりに旨味のある商いの場だったのだろう。
 ぼくも毎週出掛けたが、ただ売るだけの店はチラリと見るだけ。足を止めるのは、売り手の口上やパフォーマンスが楽しめる店だ。例えば、毒蝮三太夫みたいな顔の毒消し売りが自分の腕をパ〜ンと叩き、「こいつをハブに咬ませる、咬ませる」と言いつつ、待てど暮らせど咬ませない。それはそれで、嘘っ八の羅列が面白かった。
 バナナの叩き売りは、売り手と買い手の攻防が、見もの聴きものだ。
「どうだいこの房、何十本だか数え切れない。でっけえしょ。こいつを締めて只の八百! えっ、ダメ? ダメかあ。よし、清水の舞台からピョンと飛び降り六百! あらっ、それでもダメ? しみったれた町だなあ。これじゃ俺んとこのカカアが納まらねえぞ。え〜い、持ってけドロボー五百両ぽっきだ!」
「買ったーっ!」の声が掛かる。当時はそれがサクラとは知らなかった。