小説『木馬! そして…』14.

 美佐江の退院から十日ほどが過ぎたころ、佐代は美佐江の手を引いて、幸子がまだ居るかも知れない病院を訪れた。
 受付窓口に向かう途中で声が掛った。
「あら〜あ、古澤さんじゃない」
 走り寄って来たのは看護婦の山田良子だ。
「ああ、ご無沙汰しています」
「事務のお仕事、どう? うまくいってる?」
「あっ、ちょっと事情がありまして、いま町工場なんです。でも、お陰さまで元気にやっています」
「それはよかったわ。この子、古澤さんのお子さん?」
「ええ、一人娘です」
「かわいいわねえ。ねえ、いくつ?」
 美佐江が「四つ」と、指四本を立てて答えた。
「お名前は?」
「みさちゃん」
「みさえちゃんかあ。おりこうさんだね」
 そう言って美佐江の頭をなでた山田が、佐代との大人の会話に戻した。
「ねえ、古澤さん。黙って病院辞めちゃったって、さっちゃん、寂しがっていたわよ。あの子、ほんとに古澤さんのこと好きだったみたい。子どもって、大人の感覚と違うからね。うっかりできないなあって思ったわよ」
 佐代はドキンとし、心臓を縮み上がらせた。
「すいません。さっちゃんにも山田さんにも、ほんとうにご迷惑を掛けてしまって」
「わたしは関係ないわよ。それに、さっちゃんだって、恨んだりはしていないわよ。古澤さんと会えたこと、あの子のいい思い出になっていると思うわ」
「ほんとうにごめんなさい」
「何よ。誰ひとり怒ってやしないって言っているじゃない。そんなにペコペコしないでよ。ところできょうは何しに? どこかおかげんでも悪いの?」
「いえ、たまたま前を通りかかったものですから、懐かしさもあって、ちょっと覗いてみただけなんです」
「あら、そうなの」
「バタバタと辞めちゃったものですから…。ところで、さっちゃんはもう退院したんですか?」
「ええ。古澤さんが辞めてから、そんなに日が経たないうちにね。ほら、あの子、ご両親が亡くなってしまったじゃない。だから、おばさんって人が来て、そこに引き取られたみたいよ」
「いま、どこに住んでいるか分かりますか?」
「さあ、どこかしら? おばさんって人は、確か栃木県の那須だったと思うけど、住所、聞いていないのよね。それに、さっちゃんがそこに居るかどうかも、退院後のことは病院では分からないしね」
「そうですか」
「あら、手紙でも書こうと思っていた?」
「えっ、ええ、まあ…」
「出したら喜ぶでしょうけど、残念ね。カルテに那須の電話ぐらい載っているかなあ…。調べてみる?」
「あっ、いいです、いいです、そこまでして頂かなくても」
「そう」
 山田が腕時計に眼をやった。
「あらら、交代の時間だわ。ごめん、行かなくちゃ」
「あっ、お引止めしてごめんなさい」
「引き止めたのはこっち。今度ゆっくり会えたらいいわね。じゃあ、またね。みさちゃん、バイバイ」
「バイバイ」
「失礼します」
 佐代は木馬の話を言い出せなかった。電話番号だけでも調べてもらう手はあったが、それもよした。もし幸子の所在が判ったとして、おばさんという人に、すべてを明かす勇気がなかった。だけど、このままでいいとも思わない。
(どうしたらいいかしら?)
 これでよし─とまではいかなくても、取りあえずの区切りぐらいはつけたかった。
 あれこれ思案の末、佐代は一つの考えに行き着いた。幸子について判っているのは、ご両親が七重浜の『岩見丸事故合同慰霊碑』に眠っているという事実。それならば、そこにおもむいて事の次第を亡きご両親に報告し、併せて謝罪の言葉を述べさせて頂こう─というもの。もちろん、気休めでしかないことぐらい分かっている。たとえ気休めであっても、何もしないよりはましだと思った。
(まず、木馬を盗ったことへのお詫び。そして、木馬の力で美佐江が復活できたことでの報告とお礼を…)

 昭和三十年四月二十九日。
 この日は天皇誕生日で祝日。佐代がパートとして働く町工場も休みだ。つぎの日曜日には夫・武の一周忌の法要が控えている。誠実ひとすじに生きた人の前に、罪を引きずったまま立つことはできない。
 マッチとロウソクを持って家を出た佐代は、途中の花屋で花を買った。
「どんな用途の花束でしょう?」
 花屋がそう訊いたので、「慎んでお礼とお詫びをしたいのです」と佐代は正直に答えた。
「分かりました。ちょっと待って下さいね」
 花屋はおよその意味を理解して、四種類の花を選んだ。パステル調のスイートピーにミニローズとゴールドコインのラナンキュラス。それらを包むように雪のようなカスミソウ。それにグリーンの葉ものとしてのレザーファン。佐代の気持ちが、色合いの中に表現されていた。
 佐代が花束を、美佐江は木馬を抱えて海に向かった。木馬の首には黄色いリボンが掛っている。いや、リボンとは名ばかりで、美佐江のお父さんが残したバスケットシューズのヒモである。それを木馬の首に巻きつけたのは美佐江だった。(このヒモ、何かに使えそうね)と佐代が考え、クツから抜き取ってゲタ箱のすみに置いておいたものを、美佐江が見つけてそうしたのだ。
「あら、お馬ちゃんにおリボンつけてあげたの?」
「うん。お父さんのおリボン」
「そうだね。お父さんのおリボンだね。でも、ぐるぐるだなあ。せっかくだから、もう少しきれいに巻いてあげようよ」
「うん、いいよ」
 夫の武のものは、どれもが愛おしい。佐代はぐるぐる巻きのヒモを解くと、木馬の首に合わせてほどよい長さに切り、あらためて花結びにしてあげた。念のため、結び目が解けないように針と糸でしっかり止めた。
 美佐江はこの黄色いリボンが気に入ったらしく、木馬を「リボンちゃん」と呼ぶようになった。幸子が愛したその木馬を、美佐江も大層愛していた。
 佐代と美佐江は浜に出た。夏には海水浴場となる七重浜の砂浜が、目の前に広く大きく横たわっていた。千百余人を飲み込んだ海なのに、この日はあの大惨事がうそのように穏やかだ。岩見丸が沈没したのは、ここからすぐのところである。全員海に投げ出されたけど、幸せを運ぶ木馬は、その中のひとりの少女を助け出した。そればかりではない。いまじぶんの脇に立つ一人娘の美佐江までも復活させてくれたのだ。
 岩見丸事故合同慰霊碑は、沖合いの幻の大型船を望むように建っていた。
 佐代は慰霊碑の台座にロウソクを立てて火を点した。さっちゃんのお父さんとお母さんの霊を呼び出すために。
「みさちゃん、この花束を仏さまに上げてちょうだい」
 花束を受け取った美佐江が「ここ?」と指を差す。
「そう、そこでいいわ」
 花束が台座に置かれた。
「みさちゃんが退院できたのはね、幸子お姉さんがリボンちゃんを貸してくれたお陰なのよ。みさちゃん、こんなに元気になったから、リボンちゃんをお姉さんに返さなくてはいけないよね」
「お姉ちゃん、病院にいなかったよ」
「そうね。退院していて、どこに居るか分からないって言われたよね」
「うん。だからリボンちゃんはみさちゃんのだよ」
「幸子お姉さんが見つかるまではね。それまで、みさちゃんがリボンちゃんを預かっていますよって言っておかなくてはね。ここにはね、お姉さんのお父さんとお母さんが眠っているの。だからお手てを合わせて、預かってますよって言おうね」
「うん」
 佐代が手を合わせると、美佐江もそれを真似て手を合わせた。
 佐代は心の中で謝罪の言葉を述べた。
(幸子さんのご両親さま。わたしは、お二人のお子さんである幸子さんの、大事な木馬を盗みました。木馬を失くしたさっちゃんの悲しむ顔を目にしていながら、わたしは事実を隠したままでした。許しがたいとお思いでしょうね。ほんとうにひどいことをしてしまいました。でも、正直に言わせて頂ければ、その罪をわたしは後悔しておりません。というのも、その木馬のお陰で、この子がこうして蘇ったのですから。もちろん、幾重にもお詫びはいたします。ほんとうにごめんなさい。お詫びに重ねて、ここに心よりのお礼も申し上げます。ありがとうございました)
 謝罪とお礼。そして冥福の祈り。
 合わせた手を解いたとき、佐代は、胸につかえていたものが、いくらかなりとも取れた気がした。盗んだ上にシラを切る。それがとても苦しかった。
 いま見る海は、さっきまでとは少し違う。寄せる波に青さを感じる。沖のカモメも眩しく映る。胸に刺さった針が抜けたとまでは言えないけれど、心を覆ったダークのベールの一枚ぐらいは、ハラリと落とした気になれた。
(よかった)
 来週には夫の一周忌がやって来る。正直ひとすじに生きた夫の武に(これでどうにか顔向けできる)と、佐代は痛みがちょっぴり薄れた胸をなでた。(続)