小説『木馬! そして…』15.

9.祠の前で

 母と子は、浜辺に沿って歩きはじめた。陽光を受けた砂の上の貝殻が白く光る。波間に漂うユリカモメの白い羽も光っている。浜に寄せ来る波頭も白い。さっきまでは気づかなかった白いものが、いくつも佐代の目に飛び込んで来た。置き忘れていたものが戻ってきた感じ。心の色も黒から白へと、ゆっくり変ってゆくようだった。
「ちょっと寄り道して行こうか?」
 佐代の言葉に、すかさず美佐江が反応した。
「うん。みさちゃん、あのお山に行きたい」
 函館湾に突き出た山を指差している。
「ああ、函館山ね。みさちゃんは憶えているかなあ、三歳のころ、お父さんと三人で行ったんだよ」
「おにぎり持って行ったよ」
「わ〜あ、憶えてたんだ」
「おイモも食べたよ」
「あっ、そうか。そうだったよね」
 あのときは、タマゴ焼きと鳥の唐揚げも用意した。それと蒸かしイモ。あの、憎んでも余りある運命の日とまったく同じメニューだった。美佐江が、そこに行こうと言っている。何となく皮肉な感じがしないでもなかったが、(これも、ひとつの縁だろう。夫も一緒と思えばいい)…そう考えたとき、夫の声が山から聞こえた。
〝ここにいるよ〟
 山の上の小さな白い雲が光っている。
「行ってみようか」
「やった〜あ」
「きょうはお弁当の用意がないけど、どこかのお店で食べればいいよね」
「うん!」
 美佐江は無邪気に喜んだ。
 古澤家の生計は、佐代のパートで支えられている。退院してからの美佐江は、佐代の仕事の間、仕事場近くの託児所に預けられている。仕事が休みの日曜日は、洗濯、そうじ、生活用品の買いもの、繕いもの…と、こまねずみのような毎日だから、行楽地に行くゆとりを持てなかった。わが子の喜ぶ顔は、何にも優る清涼剤だ。心の中にも陽射しが差し込む。この気分、慰霊碑へのお参りをすませたことと関係ありそう。鉄の下駄を脱いだような気持ちがした。
 自宅から七重浜までは国鉄江差線を利用したが、七重浜から函館山へはバスを選んだ。目先を変えた方が、遠足気分が盛り上がると思ったからだ。
 バス停までの道々、美佐江は託児所で覚えたばかりの歌を歌った。

  ♪やねより
   たかい
   こいのぼり
   おおきい まごいは
   おとうさん
  
 これも皮肉であの日の歌だ。あの日、大きい真鯉は泳ぎをやめた。真鯉を失った幼い緋鯉は、いま、昼間を託児所で過ごしている。
(普段はこの子も、鉄の下駄を履いているのかなあ)
 美佐江の横顔がいじらしい。
 バスが来て乗り込む。空席が目立った。美佐江はクツを脱ぎ、窓に向かって正座した。佐代も横に腰を下ろし、首をひねって娘を見ている。よほど楽しいのだろう。美佐江の目がキラキラしている。
「あっ、こいのぼりだ。いっぱいだよ」
「元気に泳いでいるよね」
「うん。…あっ、あっち。ほら、大きなお船だよ」
「ほんと。大きいね。どこまで行くんだろうね」
「みさちゃんも乗ってみたいな」
「いつか乗ろうね」
「うん。ぜったいだよ。あっ、白いのが飛んでる。あれ何?」
「ユリカモメって言うの」
「ふ〜ん。いっぱいだね」
 会話ごとに佐代を振り返る美佐江。表情が豊かだ。
 函館駅で別のバスに乗り換え、『ロープウェイ前』というバス停で降りた。
「あら、もうお昼ね。何か食べなくちゃ」
「みさちゃん、あそこがいい」
 美佐江がしゃれた店を指差した。
 観光客目当てのちょっと高そうな店だったが、(きょうは特別ね)と佐代は思った。
 ガラスのドアを押して入る。夫を亡くして以来はじめての外食だ。美佐江にはお子さまランチを、じぶんにはスパゲティーナポリタンを注文した。
 ランチが運ばれたとき、美佐江が目をキラキラさせて「はーっ」と言った。言葉にならない喜び方。親として嬉しくないわけではないが、与える喜びの数を思うと、少し切なかった。
「おいしいね」を連発しながら美佐江は食べた。木馬が運んでくれた幸せの一頁だ。
 食事のあとは、ロープウェイで函館山に登った。左右に大きくくびれた独特の地形が美しい。夜ならナポリ、香港と並ぶ「世界三大夜景」の一つが楽しめるのだが、昼間でも、空と海に囲まれた地形を上から見るのは、十分に楽しいし美しい。美佐江の好きなリボンちゃんも、きょうのところは出番が少ない。「これ持ってて」と、佐代の手提げ袋に押し込まれたままだ。
〝うれしそうじゃないか。きみも、みさちゃんも〟
(ええ。あなたが見守ってくれているから)
〝嬉しいんだよ。笑顔の中のきみたちを見ていることが〟
 亡き夫の武には、〝どれほど〟とは表現できないほどの豊かな愛を感じている。
「あなた…」
 佐代は五稜郭の方角につぶやいた。

 山を降りてからは、教会の町をそぞろ歩いた。函館ハリストス正教会は日本最古のギリシャ正教会で、ロシアピザンチン様式が美しい。函館聖ヨハネ教会は、どの角度から見ても十字架が見えるようにデザインされている。カトリック元町教会は、おごそかなゴシック様式で、その伝統を誇っている。
 帰りのバス停に向かいながら、(こんな小さな子を連れているのに、わたし、何で教会ばかり廻ったんだろう?)と佐代は、じぶんの不思議な行動に首をひねった。こんなコースに、美佐江が従順だったことも不思議だった。

 歩き疲れた美佐江が、帰りのバスで佐代のヒザに顔を埋めて眠っている。
(よい一日だった)と佐代は思った。
 バスがスピードを落とした。
「みさちゃん、起きて。降りるわよ」
 バスが停まる。眠っていた美佐江を起こし、自宅近くのバス停で降りた。ここから家までの道は通学路になっているが、この日は天皇誕生日で学校は休み。平日は通行量の多い道だが、休日は通学児童に限らずパタリと止まる。佐代は美佐江の手を引いて無人の道をゆっくり歩いた。
 ヒュ〜ッと遠い海からの風。あと二日で五月だけれど、夕暮れ間近の風は冷たい。
「みさちゃん、寒くない?」
「寒くない」
「そう。よかった。もうすぐおうちだからね」
「うん」と答えた美佐江が、急に腰を引いた。
「どうしたの?」
「あれ、なあに?」
「どれ?」
「あれ」
 道路から少し引っ込んだところに小さな祠があった。
「あれ、祠って言うの。小さな神社ね。神さまを祀ってあるのよ」
「あの白いのだよ」
「白いの?」
 祠の前に、白いものが置かれていた。
「ああ、あれね。何かしら? お供えもののようだけど…」
 布にくるまれているが、よそ様のお供えものを覗き見るのは失礼な気がして、「さっ、行こう」と、佐代は美佐江の手を引いた。
 ところが、美佐江はその手を引き返した。
「どうしたの?」
「聞こえる」
「何が?」
「声」
「えっ、どこから?」
「白いのから」
「お供えものから?」
 佐代は耳を澄ませた。
「あらっ?」
 確かに何かが聴こえた。か細く、消え入りそうな声。
捨てネコ?)
 佐代は、祠に近づいて布の中を覗き込んだ。
「えっ、赤ちゃん!」
 布はおくるみだった。中にいたのは小さな命。ここまで寄っても、耳をそばだてないと聞き取れないほど、か弱い声。泣いているのか、苦しんでいるのか。顔は色を失っている。慌ててほっぺに手を当てると、体温が低い。
「大変!」
 佐代はおくるみを抱き上げた。
「みさちゃん、走るわよ!」
 佐代は一方的にそう言うと、最寄りの医院目指して走り出した。「あっ、待って!」と美佐江が慌ててあとを追う。
 北島医院が本日休診なのは分かっていた。でも、遠慮している場合ではない。
 ドンドンドン!
 佐代は、激しく玄関口の扉を叩いた。
「おいおい、戸が壊れるよ」
 普段着姿の北島先生が、のっそりと横の庭から現れた。
「あっ、先生! この子、大変みたいなんです」
「うん? 赤ん坊かい。そりゃ小児科だろう。うちは産婦人科だよ」
「だって先生、このあたりに小児科のお医者さんはいないじゃないですか」
「そりゃそうだが…。あらっ、あんた古澤さんじゃないか。いつあんた二人目を産んだの?」
「わたしの子じゃないんです。あとで説明しますから、早くこの子を診て下さい」
 先生は、手にした植木バサミを玄関前のたたきに置くと、「どりゃ」と赤ちゃんを覗き込んだ。
「おっ、こりゃいかん。こりゃいかんよ」
 先生は赤ちゃんのひたいに手をやってから、奥に向かって大声をあげた。
「おい、道子! 救急車だ! 救急車呼んでくれ!」

 ほどなく救急車が、サイレンを高鳴らせてやって来た。
 赤ちゃんを救急隊員の手に渡すと、ほっとする間もなく、別の救急隊員が佐代に声を掛けた。
「さあ、早く乗って」
「えっ、わたしはあの子の親では…」
「いや、事情はあっちへ行ってからだ。古澤さん、あんたも乗らんと、赤ん坊だけじゃ救急車はよう走らんよ」
 北島先生がそう言って背中を押したので、「そうそうそう」と救急隊員が、佐代と美佐江を救急車の中に押し込んだ。
 赤色灯がくるくる回り、再びサイレンが鳴り出した。走りはじめたその車内で、結局、赤ちゃんを抱いているのは佐代だった。(続)