小説『木馬! そして…』16.

 赤ちゃんが救急治療室に運び込まれた。
「お母さんは廊下でしばらくお待ち下さい」と、若い看護婦がそう言い残して治療室に駆け込んで行く。
「いえ、あの、わたしは…」と言い掛けたが、ドアがバタンと閉まってしまい会話にならない。困った顔で美佐江を見ると、美佐江がおかしそうに「ふふ」と笑った。
「まったくねえ」
 佐代も思わず苦笑した。
 ふたりで廊下の長イスに座った。
 美佐江がポツリと言った。 
「赤ちゃん、助かるといいね」
「そうよね」
「誰が赤ちゃん捨てたの?」
「捨てたんじゃないと思うな」
「じゃあ、何であんなところに居たの?」
「何でかしら?」
「かわいそうだよ」
 美佐江が怒った口調で言った。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「赤ちゃん、死んじゃう?」
「お母さんは助かると思うな。だって、ここの先生たちがみんなして、手を尽くしてくれているんだもの」
「助かるといいよね」
「そうよね。せっかく生まれて来たんだものね」
「うん」と言ったあと、美佐江は黙り込んでしまった。じぶんの足もとをジ〜ッと見つめている。何を考えているのか訊いてみたかったが、佐代はよした。眼差しから、考えの深さが感じ取れる。待つことにした。
 美佐江が顔を上げた。
「お母さん」
「なあに?」
「みさちゃん、これあげる」
「えっ、誰に?」
 手にしているのは木馬だった。
「赤ちゃんに」
「赤ちゃんにリボンちゃんを?」
「これあれば、赤ちゃん助かるよね。だからみさちゃん、このリボンちゃんを赤ちゃんにあげる」
「でもそれは幸子おねえさんから預かっている…」と言い掛けて、佐代は途中で言葉を切った。じぶんの大切なものを手放してでも、小さな赤ちゃんの大きな命を助けよう。その心根こそが大切だと思ったからだ。しかもそのことは、どこにいるのか分からない幸子への、むしろ恩返しになる気がした。
「いいの? みさちゃん、大好きなんでしょう? リボンちゃん」
「いいの。赤ちゃんにあげるの」
「そうなんだ。えらい。みさちゃんのお陰で、赤ちゃん、きっと元気になれるよ」
 美佐江は、足もとを見つめたままコックリした。
 小半時して、治療室から先生が出て来た。
「ああ、お母さん。ご安心をと言いたいところですが、いまの段階では何とも申し上げられません。ここ三日ほどが山でしょうね」
「あの〜う、あの子はわたしの子ではないんですけど…」
「あら? じゃ、お母さんは?」
「それが、存じませんの」
「はあ?」
 ここから、ようやく事情説明がはじまった。警察官が呼ばれて調書が取られ、すべてが終わるのに一時間以上も費やした。
「いや、長時間ご苦労さまでした」と、警察官が敬礼した。「大変でしたよねえ」と、看護婦長もねぎらってくれた。
 その婦長に、佐代が言いづらそうにして言った。
「あのう、一つお願いがあるんですが…」
「何でしょう?」
「この木馬、この子がリボンちゃんと呼んでいるんですけど、以前は、奇跡の木馬とか幸せを運ぶ木馬なんて言われていたものなんです。この木馬をベッドに置くと、その患者さんが救われると信じられているものなんです。いえ、おまじないとかじゃなくて、ほんとうに救われた実例がいくつもあるんです」
「実例って?」
「ええ。最初の実例は、岩見丸でこれを持っていた子が救われました」
「えっ、それ新聞で読みましたよ。少女を救った幸せの木馬のことですよね。それがこれだったんですか」
(しまった!)と佐代は思った。
(ああ、何ということをわたしは言ってしまったの!)
 じぶんでも感じるほど佐代の顔は強ばったが、幸いにも、婦長はそれに気づかないようだった。「いくつもある」と言ってしまった実例についても、婦長は、その一つ一つを聞き出そうとはしなかった。
「それで、この木馬を?」
「はい、あの赤ちゃん、大変な状態にあると伺いまして…」
「ええ、きびしい状況にあることは確かですね」
「そこで、あの赤ちゃんのベッドに、この木馬を置いていただけないかと…。それ、この子が言い出したことなんです。お願いできるでしょうか?」
「できません」
「えっ?」
「なんて言うわけないじゃないですか。そういう木馬なら、こっちからお願いしたい話ですよ。きっとあの赤ちゃんの力にもなるでしょうから」
 婦長は笑顔で佐代に頷くと、しゃがみ込んで美佐江の両肩に手を置いた。
「ありがとう。やさしいのねえ。お名前は?」
「みさちゃん」
「みさちゃんかあ。この木馬、おばちゃんが責任を持って、赤ちゃんのところに届けるからね。これがあれば、赤ちゃん、きっと元気になるよね。ありがとうね」
 美佐江が、はにかみながら頷いた。
 婦長は立ちあがって佐代に言った。
「いずれ木馬をお返しすることになるでしょうから、ご住所を…」
「いえ」と、佐代は即座に答えた。
「これ、赤ちゃんに差し上げるものなんです。お返しいただかなくていいんです」
「だとしても、贈り主のお名前ぐらい伺っておかないと…」
「いえ、いいんです。あとはよろしくお願いします。さっ、行こう、みさちゃん。では、失礼します」
 佐代は美佐江の手を取ると、足を速めて玄関に向かった。
「あの、ちょっと!」
 婦長の声が追いかけて来たが、聴こえなかったふりをして玄関を飛び出す。
 足を速めて通りを進む。外にまで追って来る気配はない。角を一つ曲がったところで足を止め、上空を振り仰ぐ。そこには、すでにいくつもの星がまたたいていた。
「みさちゃん、えらかったね。みさちゃんのお陰で、お母さんも、あの赤ちゃんが元気になると思うな」
「よかったね」
「よかった。みさちゃん、お腹すいたでしょう。ここからだと、またバスに乗らないと帰れないよね。ほら、あそこにラーメン屋さんのちょうちんが見えるよ。ラーメン食べて行こうか?」
「うん!」
 一日二度の外食など、美佐江はもちろん、佐代にしても、ここ何年と記憶になかった。
(でも、きょうは特別中の特別です! だって、いいことだらけだったもの)
 つないでいる手に佐代がギュッと力を入れると、美佐江もギュッと握り返した。(続)