小説『木馬! そして…』13.

8.謝罪とお礼

幸子の大切な木馬を盗んだことで、佐代の胸に針が刺さった。幸子の顔を見るたびに、刺さった針が意識のツボをギリギリ責める。
(痛い! 苦しい!)
 あまりの痛みに堪えかねて、佐代は病院のパートを辞めた。
 そうなることは自明の理。判り切っていたことなのに、佐代は木馬が欲しかった。切ないときは茨も潜る。美佐江に木馬を握らせたかった。
(木馬さん、お願い! 美佐江にも、幸せを運んで来て下さい!)
 佐代は、盗んだ木馬に祈り続けた。そんな姿を覗く者が仮にも居たら、きっと狂気じみて映っただろう。
 祈り続けてかれこれ二ヶ月。美佐江に変化は見られなかった。木彫りの馬も、とぼけた顔をしたままだった。
(それはそうよね。木馬は木馬だもの…)
 人間は悲しい。追い詰められると幻想を生む。いや、木馬を思う心が幻想でも、それならそれで事情を話して借りる手もあったろう。それなのに、そこに思いが至らぬほどにうろたえて、後先もなく他人のものに手を掛けてしまったじぶん─。佐代は心の底から悔やむのだった。
(さっちゃんはどうしているだろう? わたしが木馬を盗ったことを、あの子は知っているのだろうか?)
 とても気になることだったが、確かめようとは思わなかった。知ること自体が恐ろしかった。
(とにかく木馬は返そう。差出人の名前を伏せて、木馬を病院に送り返そう。いまはとても名前を明かす勇気が出ない。いつになるかは分からないが、いつかきっと、じぶんの名前でお詫びの手紙も書いて送ろう)
 佐代はそう決心して立ち上がると、美佐江の毛布の中に手を差し入れた。指を這わせると木馬に届いた。そっと掴むと温かい。この温もりは美佐江のものだが、温もった木馬は幸子のものだ。
それを取り出そうとして(あらっ?)と思った。何か変。取り出すことを拒むような、わずかばかりの抵抗力が指に伝わる。
(気のせいかしら?)
 佐代は、そろりと毛布をまくった。
 木馬が現れた。
(えっ!)
 佐代はじぶんの目を疑った。(錯覚だろうか?)とも思った。意識を持たないはずの美佐江の右手の人差し指が、木馬の首に掛っていた。
(なぜ?)
 美佐江を見た。目は閉じられたままである。
 佐代は、もう一度木馬を軽く引いてみた。やはり、わずかではあるが、木馬を放すまいとする美佐江の意志が感じられた。いや、それより何より不思議と言えば、なぜ木馬の首に美佐江の指が掛ったのかだ。偶然とは思えなかった。
(よもや奇跡の木馬が!)
 高鳴り出した佐代の胸。息苦しさが加わってゆく。佐代はじぶんの胸に手をやって、どうにか呼吸を整えてから、美佐江の耳元で「みさちゃん」と呼んでみた。
 反応はなかった。美佐江の右腕を軽く握って、もう一度「みさちゃん」と呼んでみた。やはり、反応らしきものはない。
(幻覚…)
 佐代は顔をベッドに押しつけた。
(木馬の仕打ち。罪と罰…)
 声を忍ばせ佐代は泣いた。
(…?)
 佐代は顔を上げた。美佐江の右腕を握る手に、かすかなものを感じたからだ。
(これも幻想?)
 霞んだ涙目で美佐江を見た。その刹那、佐代の背すじを電流が走った。
(うそ!)
 美佐江のまつ毛がチラリと動いた。
(うそじゃない! あのときと同じだ! さっちゃんが意識を戻したあのときと!)
 あのときはとっさに廊下に飛び出したが、ここでは佐代はとどまった。わが子の歴史の一頁かも! 佐代はしっかり見ようと思った。
 美佐江のまつ毛がまた動いた。
 また動いた!
 そしてついに、感激の一頁がめくられた。ゆっくりと美佐江の瞼が開けられたのだ。十ヶ月ぶりに見る愛くるしいわが子の瞳。
(わたしと武さんの宝物!)
「みさちゃん! みさちゃん! みさちゃーん!」
 佐代は美佐江に覆いかぶさり、節度かまわず泣き出した。思いのたけのその声は、ドアを通して廊下に響いた。
「古澤さん! どうしたの!」 
 あまりの声に、看護婦二人が飛び込んで来た。
「まあっ!」
 先頭の看護婦は、振り返りざまに叫んだ。
「先生を!」
「あっ、はい!」
 あとから飛び込んだ若い看護婦が、くびすを返して飛び出して行く。
 ほどなく担当医が駆けつけた。
「おお! ユメ旅行から戻ったか! よ〜し、でかした! でも、このままでは重た過ぎるなあ」
 担当医はそう言うと、「ほらほら、起きてよ、お母さん。潰れちゃうよ」と、佐代の体を美佐江の上から引きはがした。

 ひとたび目を覚ました美佐江の回復ぶりは、医師たちの予想をはるかに超えていた。十ヶ月ぶりのお目覚めなのに、話す言葉がハッキリしていたし、話す内容も確かだった。きのうも元気だった子どものように、足りないところが何もない。無限のトンネルのように見えた、あのこん睡がうそのよう。精密検査やその他いろいろ、手順にそったことをすませて、三週間後には晴れて退院が許された。
 眠っていても、体が時の流れを感じ取っていたのだろうか。お父さんのいない現実を、美佐江は静かに受け入れてくれた。それは悲しいことではあったが、現実の世界を考えると、ありがたいことでもあった。
 驚くことが多い中、佐代が何より驚いたのは、十ヶ月も眠り続けていたというのに、美佐江の心が、その間も成長を続けていた(と思える)ことだった。事故当時はまだ三歳。その子がいま、四歳なりの感性を持っているかのようなのだ。
(どうしてだろう?)
 信じがたい喜びだけど、振り返れば思い当たることがある。
(やっぱりそうよね。絵本、読んで聞かせていてよかった!)
 わが家にはじぶんがいて、目の前には元気に遊ぶ子どもがいる。夫を失くしたいま、それが望み得るベストの生活。ようやくそれを佐代は手にした。
 ただし、これですべてが解決とは思っていない。まだ宿題が残っている。美佐江を救ってくれたのは、あの〝幸せを運ぶ木馬〟なのだと、いま佐代は完全にそう思っている。
(だから…)。
 あんな大事なものを、このままにしておいてはいけない。さっちゃんに返さなくては─と佐代は思うのだった。(続)