小説『木馬! そして…』12.

7.この子にも

 木馬の「幸せちゃん」が消えて、幸子は大層悲しんだ。
 もうひとり、木馬の「幸せちゃん」が消えたことで、幸子も驚くほど悲しんでくれた人がいる。おそうじのおばちゃんだ。「困ったわねえ」「困ったわねえ」を繰り返した。
「おばちゃん。そんなに悲しまなくてもいいよ。わたしならもう大丈夫だから。幸せちゃんは、わたしを助けたことで役目をすませたと思っているんだよ。いまごろは生まれ故郷の牧場に戻って、おいしい干草をたくさん食べていると思うよ」と、逆に幸子が慰めたほどだった。
 そのおばちゃんが、どうしたのだろう? 今朝はまだ姿を見せていない。九時前には来ていたはずなのに、十時を回っても現れない。何度もゴミ箱に目をやったが、きのうからのゴミはそのままだ。(風邪かなあ?)と思ったり、(急用ができたのだろう)と考え直したり、幸子の一日は落ち着かなかった。

 つぎの朝、(来た!)と思ったら、別の人だった。幸子は、じぶんでもまさかと思うほどのショックを受けた。木馬の幸せちゃんとおばちゃん。ほんのわずかなうちに、幸子は二つの宝物を同時に失ってしまったのだ。
(おばちゃんとは、退院のときは笑顔で別れるだけの関係なのに、どうしてこんなに寂しいのだろう?)
 そう考えたとき、思わずブルッと身ぶるいした。
(じぶんには、もう家族がいない。だからなんだ。だからわたしにとって家族に継ぐ人。その人が、あのおそうじのおばちゃんだったのだ!)
 幸子は看護婦の山田さんに聞いた。
「おそうじのおばちゃん、どうしたの?」
「ああ、古澤さんね。事務のお仕事が見つかったんだって。あらっ? さっちゃんには何も言って行かなかったの?」
 幸子は不満そうに首をふった。
「変ねえ。さっちゃんに黙って行くなんて。古澤さん、さっちゃんのこと、いつだって、すごく気にしていたのよ。大好きだったんだから。…そうか。好きだからこそ、面と向かってサヨナラを言えなかったのかも知れないなあ。そうね。あと少ししたら、さっちゃん宛てに手紙が来るんじゃない? わたしはそう思うな」
(だったらうれしいな)と幸子は思った。
 
 病院の清掃婦というパートを辞めた古澤佐代は、そのころ、同じ函館市内の別の病院の病室にいた。「事務の仕事が見つかったから…」は、事実ではなかった。事務の仕事を探していたのは事実だが、まだ見つかっていない。だから、それを理由にパートを辞める必要はなかった。家計の事情を考えれば、辞めてはいけないことだった。事務の仕事どころか、どんなことでもやるしかないほど、佐代のサイフは空っぽだった。それなのに佐代はパートを辞めた。それなりのわけがあった。心の痛みにたえることができなくなっていたのである。
 佐代はわが子の左手を、自身の両手の中に包み込んだ。その手の甲に、ポツリ、ポツリと罪のしずくがこぼれて落ちた。
(だって、さっちゃんの目は覚めたのに、あなたは眠り続けたままなんだもの。もう半年にもなるというのに。だから…だからお母さん、あなたの目も覚めて欲しかったの)
 眠り続ける娘の美佐江。そんな美佐江の右手がふれる位置に、あの奇跡の木馬、幸せを運ぶ木馬があった。 
 佐代の脳裏に甦るのは、半年ちょっと前の悪夢である。

 運命の日は、忘れもしない五月五日のこどもの日だった。子ぼんのうの夫の武は、前日から張り切っていた。
「みさちゃん、あしたはこどもの日だよ。お母さんと三人でサイクリングでもする?」
「うん、する!」
「そうか。じゃあ、大奮発だ。あしたは貸し自転車を二台借りちゃおう。お母さんが一台。みさちゃんとお父さんで一台。五稜郭の公園まで行っちゃおうか?」
「うん!」
「じゃあ、お母さんに、お弁当も作ってもらう?」
「うん、おにぎり!」
「そいつはいいねえ。サケの入ったおにぎりね」
「みさちゃん、タマゴ焼きも」
「だったら、ついでに、ふかしイモもお願いしちゃおうかな」
「はいはい、分かりました」
 佐代は幸せだった。どんなに立派そうに見えても、信じ合えない家族は不幸だ。その点、佐代の夫は誠実だった。ふんだんの家族愛に溢れていた。小さな工場で働く夫の収入は、決して多くはなかったけれど、ぜいたくさえしなければ暮らしに困ることはなかった。十分に満たされている人生だと思っていた。(それもこれも神さまのお陰です)と、日ごろ、つくづくそう思っていた。
 それなのに─。すべてが暗転するのは一瞬だった。「あなたは一体、何を見ていなさったんです!」と、神をののしり泣き叫ぶことになろうとは─。
 こどもの日の朝、おにぎりをつくり、タマゴを焼き、ダンシャクイモを蒸かし、鳥の唐揚げも作って二台の貸し自転車を連ねて出掛けたサイクリング。夫の後部座席にまたがった美佐江は、ときどき佐代を振り返っては、もみじのような手を振っていた。
 夫の武は安全運転だ。スピードを出さず、交差点では必ず止まり、曲がるときには後方からの通行車両を確認し、手信号まで出して曲がる。見ている佐代が思わず苦笑してしまうほどだった。
 そんな夫を娘もろともなぎ倒したのは、ハンドルを真っ直ぐに保つこともできないほど酔っ払った男のトラックだった。真っ昼間のベロベロ運転。目の前で、夫の武は即死だった。娘の美佐江は意識不明の重体だった。
 その美佐江、半年が過ぎて四歳になったいまも、意識を戻すことなく眠り続けている。
 一家の働き手を失った佐代はパートに出た。同じ市内ではあるけれど、美佐江が眠る病院とは別の病院の清掃婦として。
 佐代の一週間は、判で押したようだった。朝の六時に出勤し、午後の三時に仕事を終える。そのあとは美佐江の病院に直行し、眠る美佐江に絵本を読んで聞かせていた。絵本は、乏しい生活費の中から工面をし、毎月二冊ずつの新刊を買った。「もったいない」と、佐代のサイフを知る人は言った。
「もったいない」には、ふたつの意味が含まれていた。ひとつは、もちろん費用のこと。そして、もうひとつには(意識もないのに…)という意味である。
 これには佐代は怒りを覚えた。心の中で大反論した。
(美佐江はいま、表面的に眠っているだけ。心の目は開いているのです。心の目には耳もあり、その耳で、わたしが読む本の話をしっかり聞いているのです!)
「新刊でなくてもいいのでは…」と、言いにくそうに言う人もいた。この言葉は聞き流した。夫を亡くしたパートの身。(新刊二冊といえば、バカにならないお金でしょう?)と思われるのは当然だと、じぶんでも理解していた。でも、佐代は新刊にこだわった。
(美佐江がわたしから与えられているのはこの本だけ。これが、この子の得ているすべてなのです。この子にとってこの本は、あなたのお子さんの晴れ着であり、クツであり、おままごとセットやクレヨンなのです。それらのすべてを、あなたは古物でまかなうことができますか?)
 佐代には、新刊を選ぶことでの、もうひとつの信念的な思いもあった。良い絵本には「希望」がある。「未来」がある。「生きとし生けるものを息づかせる力」がある。古本屋さんに良い絵本が無いとは言わないが、古本屋さんにあるものは一度は誰かが買ったもの。買ったあとで手放したもの。わたしが欲しいのは、一度手に入れたら、いつまでも手放したくならない本。一生持ち続けていたいと思う本。中味に命が宿っている本。だから新刊なのだ。
(美佐江にも、めぐり来る希望や未来があるのです。だから、わたしはこの子のために、よいお話を選んで読み続けます)

 美佐江のベッドには木馬がある。木馬を見るたびに、佐代は幸子のことを思った。
(元気にしているだろうか? 退院はしたのだろうか?) 
 佐代が幸子と出会ったのは、十月初旬のことだった。
 それより前の九月二十六日の夜、日本海からやって来た超大型台風が津軽海峡を直撃し、空前の被害をもたらした。特に青函連絡船岩見丸の転覆は、死者・行方不明合わせて千百五十五名という、日本の海難史上、例を見ない大惨事となってしまった。
 地獄の一夜が明けて佐代が仕事に出てみると、病院は異様な空気に包まれていた。消防隊員、警察官、役場の職員、被災者の家族…。誰もかれもがわんわんしていた。そうした人々の間をぬって、白衣の天使たちが飛び回っていた。前日までの空きベッドは、すべてが埋めつくされ、そこに横たわっている人たちは、全員が、岩見丸沈没事故の被災者だった。「痛い、痛い」と泣き叫んでいるのは良い方だ。うめくこともできないで、生死の淵をさまよう人が少なくなかった。
 幸子も、生死の淵のひとりだった。それも一般病棟ではなかったため、その時点で佐代は幸子の存在を知らなかった。
 佐代が幸子をはじめて見たのは、事故から一週間が過ぎてからだ。処置室から一般病棟に移されて来た少女。その子のベッドには、マジックで「香川幸子(十歳)」と書いた紙がクリップで止められていた。娘の美佐江より六歳上の小学生。その子も美佐江と同じように、意識を失くし、ひたすら眠り続けていた。
「この子も岩見丸の被災者ですか?」
「そうなの。よく助かったって評判よ。でもね、もう一週間になるというのに、ごらんの通り眠り続けたままなの」
 佐代は、その子がわが子と同じように植物状態であることを知った。
「ご両親が亡くなったことも知らないでね」
「えっ、ご両親とも犠牲に…。そうなんですか」
 同じに意識を失くしたわが子とこの子。でも、わが子にはわたしがいる。香川幸子という少女には、もう、この世に母さえいない。新聞は、この子の救助を奇跡の木馬のお陰のように報じたが、その子を担務する看護婦は、「冷たい木馬」だと言った。そうかも知れない─と佐代も思った。一日も早く、その眼を開けてあげたかった。
 それから約二ヶ月。幸子は奇跡的に蘇った。それはとても嬉しいことだった。「やっぱりあれは、幸せを運ぶ木馬だったのね」と看護婦の山田と共に、何度となくその話題で盛り上がった。
 だが時間が経つにつれ、心がむしばまれだしたのだ。(わが子だけが取り残された)という感情。それがコールタールのようにドロリと黒々、心の壁を流れはじめた。
(さっちゃんは意識を回復させたのに、なぜ美佐江だけが…。もう七ヶ月にもなるというのに…)
 わが子が不憫でならなかった。コールタールのような黒い流れは、胸のすべてを黒く染め、それが溢れて耳から鼻から口の穴から、すべての穴から流れ出て来る思いだった。
 佐代は、「おバカさん」とじぶんを叱った。
(幸せを運ぶ木馬なんてあるはずがない。さっちゃんがあの事故のとき、たまたま握っていたおもちゃ。それが木馬だっただけのこと。分かり切ったことなのに、どうしてあなたは、そんなに木馬に気を奪われるの!)
 正しい心がそう言うそばから、(借りるだけ。借りて美佐江の手に、ちょっと握らせてみるだけじゃない)と、ずるい心が佐代の背中を押しに掛った。
「おバカさん。ほんとうにわたしはおバカさん」
 口に出して言ってみても、幸子の部屋に一歩足を踏み入れると、目が自然と木馬に吸いついてしまう。
(ああ…)
 そして、木馬は消えた。(続)