小説『木馬! そして…』11.

 翌日、幸子の部屋を山田が覗くと、古澤佐代が回収しかけたゴミ箱を手に、幸子をじっと見つめている。
「あら古澤さん。どうしたの?」
「あっ、山田さん。ちょっと見て下さい。さっちゃんのくちびる」
「くちびる?」
 山田もベッドに寄って幸子を見た。
「くちびるがどうしたって? 特に変わったようには見えないけど…」
「さっき、動いたように見えたんですよ」
「気のせいじゃない? ちっとも動いてない…あら? …あらまあ!」 
 山田は、とっさに幸子のくちびるに耳を寄せた。
 つぶやきが聞こえた。
「おと…」
「えっ? 音?」
 山田は耳に全神経を集中させた。
「おとう…」
「なあに、さっちゃん」
「おとうさんと…」
「あっ、お父さんと…か。お父さんと何?」
「お父さんと…お母さんは?」
 山田が古澤佐代をふり返った。
「聴こえた?」
 佐代が頷いた。
 しかし佐代からも山田からも、つぎに続く言葉が出ない。幸子に返すべき答えを、二人は見つけることができないでいた。
 山田からの連絡で、すぐ担当の先生がやって来た。
「やあ、お話ができるようになったようだね。よかった、よかった。いま、きみのおばさんと連絡を取ったところだよ。明日には栃木県の那須から来てくれるって。家族のことを知っているのはおばさんだから、おばさんが来たら聞いてみるといいよ。お父さんやお母さんのことを」
 那須のおばさんとは、幸子の母の妹である。叔父と二人で『ハーブランド那須』というハーブ園を経営している。叔父叔母夫婦には子どもがいない。だからだろうか、たまに幸子の家にやって来ると、「さっちゃんがうちの子だったらいいのになあ」と、本気とも冗談ともつかないことをよく口にした。
 幸子は夏休みを利用して、一度だけおばさんの家に泊まりに行ったことがある。その家は、豊かな香りに満ちたハーブ畑に囲まれていた。畑の突き当たりに並んでいるのはブルーベリーの木。青く実ったブルーベリーの実をもいで食べながら、(ああ、こんな家にずっと住めたらいいのになあ)と思ったことを、幸子はいまも憶えている。
 そのおばさんが来てくれるのだ。でも…。
(なんでおばさんなの? どうして、お父さんやお母さんじゃないの?)
 答えは聞くまでもないことだった。絶対安全のはずの大型船が傾いて、乗客たちはつぎつぎ荒海に落ちて行った。「キャ〜ッ!」と叫んだお母さんが、「あなたーっ!」の声を残して海に落ちた。「夕子―っ!」と叫んだお父さんも、幸子を抱きかかえたまま海に落ちた。
 幸子の記憶はそこまでだ。そこまでだったが…その先、どうなったかを推理することぐらい、十歳の幸子にはできた。
「お父さんもお母さんも…」
 幸子は毛布を顔までたくし上げた。
 担当の先生が、まことに弱った顔をした。まことに弱っているのは、その場に居合わせている看護婦の山田良子と清掃婦の古澤佐代も同じだった。
「あらあら、おそうじの途中だったわ」と、誰に言うでもなくつぶやいて、古澤佐代は静かに部屋を抜けて行った。
 
 つぎの日の午後、はるばる津軽の海を乗り越えて、本土の那須高原からおばさんがやって来た。おばさんは病室に入る前から、目をうるうるさせていた。
「さっちゃん、よかった! 意識が戻ったって、きのう先生からお電話を頂いたのよ。すぐに汽車に飛び乗ってね。わたしのこと、分かる?」
 幸子は頷いた。そして小声で「おばさん」と言った。
「よかった。記憶、完全に戻ったのね」
「うん」
 このあと、いくつもの会話を交わしたが、父母については、おばさんの口から出なかった。
 幸子はじぶんから、恐れている言葉を口にした。
「お父さんとお母さん、もう居ないんだよね」
 おばさんのくちびるがブルブルふるえた。あわててハンカチを取り出して、両手で顔に押しつけた。
「わたし、ひとりぼっちになったのね」
 おばさんの声がハンカチの中で爆発した。

 少しずつおかゆからはじまった幸子の食事は、二週間足らずで通常のものと変わりはなくなった。と言っても、それは献立の内容であって、量の問題ではない。長期の断食から復帰して、通常の量など食べられるはずがない。いや、それは物理的問題だ。それとは別に精神的問題がある。精神的に見ても、食欲などわくはずがない。ひとりぼっちという現実は、十歳の身には重過ぎた。

 そんな幸子を励まし続けてくれたのは、「おそうじのおばちゃん」だ。部屋のゴミの回収は一日一回だが、おばちゃんは廊下を通るたびに顔を出し、幸子に声を掛けてくれた。
「さっちゃん、ほら見て、窓の外。久しぶりの日本晴れよ。こんな日には何かいいことあると思うよ」
 午前中にそう言って出て行ったおばちゃんが、午後になって、「ほら、思った通りでしょう。日本晴れからの贈りものが届いたもの」と、お手玉を持って来てくれたことがある。お手玉の布地を、幸子はどこかで見た覚えがあった。(どこで見たんだろう?)と考え続けて思い出した。おばちゃんが仕事を終えて帰るときに、いつも下げていた布袋の生地だった。
「病院の食事ばかりではあきるわよね」と、タマゴ焼きを挟んだサンドイッチを作って来てくれたこともある。
 どれもこれもありがたかったが、何より幸子が嬉しかったのは、いつでも笑顔で話し掛けてくれたこと。ベッドの中でひとり涙を流して明けた朝でも、おばちゃんの顔を見ると元気が戻った。
 いまの幸子には大切なものがふたつある。ひとつは「おそうじのおばちゃん」という存在である。起きているときには欠かせない存在だった。
 もうひとつは、お父さんとお母さんが買ってくれた木彫りの馬の「幸せちゃん」。こちらは眠るときに欠かせない。「幸せちゃん、おやすみなさい」と言ったあと、幸子は木馬を握りしめて眠りにつくのだ。両親が居たときからの習慣だった。
 それほど大事な木馬だったのに、ある日、突然姿を消した。
「一体誰が…」
 おそうじのおばちゃんも、看護婦の山田さんも、必死に探してくれた。部屋の中はもとより、廊下のベンチの下、トイレの中、待合室、談話室、面会室…。おそうじのおばちゃんは、ゴミを焼くドラムカンの灰の中まで探してくれた。しかし、幸子の「幸せちゃん」は、そのどこからも見つからなかった。(続)