小説『木馬! そして…』10.

6.消えた木馬

 幸子は函館の病院に送り込まれた。心臓は動いていたが意識はなかった。
 こんこんと眠り続ける幸子の枕もとには、木彫りの馬が置かれていた。新聞に「奇跡の木馬」と報じられた馬である。
「これが、この子の命を救った奇跡の木馬か。新聞にあんなふうに書かれたのでは、勝手に処分もできないなあ」
 主治医のこの一言で、木馬は幸子のベッドに置かれることになったのだ。
 少女を救った奇跡の木馬は、病院内でも評判になった。
「へ〜え、これが、あの奇跡の木馬かあ」と、他の診療科の看護婦たちも、わざわざ幸子のベッドを覗きに来た。
「でもこの木馬、ちょっと冷たくないかなあ?」と言ったのは、幸子の脈を取りに来た看護婦の山田良子だ。
「どういうことです?」と聞き返したのは、幸子の部屋のゴミ箱のゴミを回収に来ていた古澤佐代。佐代はパートの清掃婦としてこの病院で働いている。廊下やトイレや面会室の清掃に合わせ、病室のゴミも回収している。
「これと同じ木馬がたくさんあったら、岩見丸の犠牲者は、もっと少なくてすんだのにって、山田さん、ごじぶんでそう言っていたじゃないですか」
「ええ、言ったわ。ありがたい木馬だと思ったからね。でもね、よく考えたら、やっぱりちょっと冷たいなって。だってこれ、ほんとうに幸せを運んでくれる奇跡の木馬だとしたらよ、なぜ命だけを救ったの? なぜ、心も同時に救ってくれなかったの? 確かにこの子の命は助かったわよ。でも、こうして意識もないまま眠っていることが幸せって言える? おかしくない?」
「ああ、そういうことですか。確かにね。でも、まだ分かりませんよ。いつか、突然この子が目を覚まして、『ここはどこ?』なんて言い出すかも知れませんからね」
「そうあって欲しいけど、担当の先生の話だと大変みたいよ。快復の可能性はせいぜい二分止まり。残りの八分はむずかしいって」
「可能性、そんなに低いんですか。家族を失い、残ったのは意識のない生命線だけ…。何のための命かってことになりますよね。そうですね。山田さんが言うように、この木馬、ちょっと冷たいかなあ」
「でしょう? やることがハンパなのよね」
 そう言ってから山田良子は木馬を手に取り、叱りつけた。
「こら、木馬。やるからには、もっとキッチリやりとげなさい」
 もちろん冗談だけど、その顔は笑っていない。古澤佐代も笑わなかった。二人の視線が自然と幸子に向けられ、「は〜あ」と、二つのタメ息が同時にもれた。

 幸子が入院して二ヶ月が過ぎた。窓の外を白いものが舞い出していた。
「おはよう、さっちゃん。外は雪よ。ほら、函館山があんなに真っ白」
 ゴミの回収にやって来た古澤佐代は、雪のチラつく窓の外を見ながら言った。 
「と言っても、さっちゃんには見えないのよね。だからって、希望を捨てちゃだめ。わたしだって、ずっと待っているんだもの。あしたこそ、来週こそ、来月こそ、来年こそってね。さっちゃんはまだ二ヶ月なんだから…」

 翌日も古澤佐代は声を掛けた。
「さっちゃん、おはよう。ほら、きのうの雪、とうとう積もっちゃったわよ。この景色、本格的な春が来るまで続くのかしらね。…そうだ。さっちゃん、春と競争したらいいよ。春が先か、さっちゃんが先か。おばちゃんは、さっちゃんが先だと思うな。このゴミ箱に入っているの、看護婦さんが捨てたものばかり。でも春には、さっちゃんが捨てるゴミも入ると思うんだ。おばちゃん、早く、さっちゃんが捨てたゴミを回収したいな。さっちゃんが食べたイチゴのヘタとかね」

「さっちゃん、おはよう。外はすごい吹雪よ。ゴウゴウゴウって、来ちゃったのよね、冬将軍がシベリアから。函館山、どこかへ行っちゃったみたい。見えやしないもの」と、そこまで言った古澤佐代が、「えっ?」と一言、目を見張った。幸子のまつ毛が、かすかに動いた…というか、そのように見えたからだ。
(錯覚だろうか? でも、確かいま…)
 古澤佐代は目を凝らし、しばらく幸子を見守った。
 コチコチコチ…と十数秒。
「あっ」
 じっと見ていなければ見落とすほど、ほんの僅かにまつ毛が動いた。「ほら、やっぱり」とつぶやいた直後のことである。
「あっ!」
 佐代は思わず叫んでしまった。幸子が薄目を開けたのだ。
「目が! さっちゃんの!」
 佐代は廊下に飛び出した。
(あの子が! あの子が!)
 気がつくと、ナース・ステーションへと走っていた。
(あの子が! あの子が!)
 よその子なのに、走りながら涙がはじけた。心の底からわき出す何かが、佐代のすべてを操っていた。
(あの子が! あの子が!)
「山田さん! 山田さん! さっちゃんが!」

 完全とはいかないまでも、幸子の意識はともかく戻った。医師からすれば奇跡だった。「いまだから言えるけど…」と前置きして、「データ的には九十九・九九パーセントむずかしいと思っていた」と、心の内を明かしたほどだ。
 岩見丸の遭難現場から救出されたこと自体が奇跡だったのに、いままた新たな奇跡が起こった。看護婦の山田良子は、幸子の木馬を手のひらに乗せて言った。
「ごめんね、木馬くん。この間はあんなことを言っちゃって。あなたはやっぱり奇跡の木馬。幸せを運んでくれたのよね。失礼しました。あらためて言わせていただきます。感謝の気持ちを込めて、あ・り・が・と・う」
「わたしも謝らないといけませんよね。山田さんと同じこと言ったんですから」
 そう言って、古澤佐代も木馬にペコリと頭を下げた。そして二人は今度こそ、清々しい気持ちになって笑い合った。
 目は開けたけど、言葉を発するまでには至っていない幸子の顔が、心なしかほころんでいる。
「あら? さっちゃんの顔。何だか笑っているみたいですよ、ほら」
「ほんと。さっちゃん、わたしたちの話、分かってる?」
 幸子のまぶたがチラチラ動いた。
「そう。分かっているのね」
「がんばれ、がんばれ、さっちゃん!」
「ここからは、奇跡の木馬の第二ラウンドですね」
「チ〜ン。ファイト、ファイト」 
 山田がファイティング・ポーズを取ってジャブを飛ばすと、佐代が笑い、幸子の頬も少し動いた。(続)