『蚊帳』

『蚊帳』
 蚊帳の多くは萌黄色に染めた麻で、茜色の縁取りがされていた。高価だが無くてはならないものだったから、嫁入り道具の一つにもされた。
 蚊帳に入る時は、裾をパタパタ払ってから素早く入る。蚊を中に入れないためだが、どんなに注意しても、蚊をシーズン中ブロックし続けるのは至難のわざだ。何しろ当時のドブ川と来たら、数千数万とも見えるボーフラどもがブロック肉の塊のようになって、泥水飲み飲み出陣の機会を窺っていたのだから。
 消灯後の蚊帳の中、これ見よがしに耳元を襲う金属音の腹立たしさ。蚊取り線香を蚊帳の中で燻らす家庭もあったと訊くが、当家にはそんなスペースさえなかった。
 時々、赤黒いものが畳の隅に転がっていたりする。摘まんでみると血を吸い過ぎて飛べなくなっている蚊。蚊の中にも〝吸い意地〟の張った奴がいたということ。
 蚊帳は四隅を吊って使うわけだが、朝、四隅の吊り手を外すと、おおかたの子どもは布団の上に広がり落ちた蚊帳を見て、波打つ海を連想する。そして、そこに飛び込み泳ぎ出す。結果、親に叱られるのは正常な子。ぼくも叱られた。子どもたるもの、あれが海に見えないようでは将来が危うい…と、ぼくは今でもそう思っている。