『ちゃぶ台』

『ちゃぶ台』
 食事はこの絵のように一家で囲むイメージが強いが、それは大正デモクラシーを経て昭和に入ってからのこと。それ以前の日本では、個々に〝銘々膳〟と呼ばれる個別のお膳で食事をしていた。東京生まれのぼくは、小学校に上がる昭和二十四年四月のひと月前まで信州に疎開していたが、そこでのぼくも六歳の身で銘々膳だった。
 疎開先では母の叔母夫婦との共同生活。その母の叔母の夫というのが口うるさいジイサマで、「食事中は口を利くな。黙って食べろ」と、再三ぼくは注意された。「いただきます」から「ごちそうさまでした」まで終始無言。食べるものも粗末だったから、とてもみじめに感じていたが、あとで聞いたら余所も大体同じだった。
 帰京後の生活では、お膳は銘々膳からちゃぶ台になり、食事中の会話も自由になった。変わらないのは食事の内容。来る日も来る日もピンクのデンブとアミの佃煮。ごはんは麦と外米の半々炊き。
 中学二年の時、輝かしい一頁がめくられた。麦が抜けて、外米オンリーとなったのだ。それはもう旨いと言ったらない。思わず「わ〜っ!」と叫んで表に飛び出し、手にした茶碗を天に掲げて踊り出したくなるほどだった。