『小さなうそ』その16

 景子先生の視線が、ゆきえから児童たちに戻された。
「お母さまに代わって電話口に出た水之江さんのお父さまが、おっしゃいました。あしたにでも、つまりきょうのことですけど、学校に電話するつもりでした─と。柴山君のこと、とても心配していらして、必要なら帰国して、直接クラスのみなさんにわたしから説明しますよ─ともおっしゃって下さいました。わたしは言いました。まずわたしから、クラスのみんなに説明します。それで分かってもらえなかったら、そのときはお願いしますって。地球を半分回って来て下さい。そんなこと、普通には言えることではありません。でも、必要なら、そうお願いするかも知れません。わたしは、そのように申し上げました。人の命というものは、それほど尊いということです。いかがですか? わたしの説明で、柴山君のこと、分かっていただけましたか?」
 児童たちは、だれもが顔を伏せたままだ。石黒先生は、キリキリした顔を窓の外に向けている。
「知らないこととは言いながら、わたしも、ずいぶんひどいことをしてしまいました。柴山君の絵を、正しくは水之江さんとの合作の絵を、区の広報に推薦したのはわたしです。五年間も絵の教師をしているのに、あの絵の下地を見抜けなかったのですから」
 景子先生は、いかにもじぶんが情けないというふうにタメ息をついた。
「それが見抜けていたら、こんな結果にはならなかったでしょう。失態です。だからわたし、柴山君、水之江さん、二人のご両親、そして河原崎さんやみなさん、石黒先生にもあやまらなくてはいけないんです」
 児童からの声は無い。少なくとも、あやまらなくてはいけない人が景子先生ではないことだけは、クラスのだれもが分かっていた。
「お伝えしたいことがもう一つあります」
 ここで景子先生はチラリと石黒先生を見た。石黒先生はその目線に気づかない。窓の外を見つづけている。
「きょうの柴山君は仮病ではありません。これは断言します」
 石黒先生が反射的にふり返り、「それはあなた…」と言いかけたが、景子先生と目が合ったとたん、つぎに言うべき言葉を飲み込んでしまった。「断言します」と言い切った人の目に、気押されしてしまったようだ。
 ゆきえが静かに着席した。景子先生は、うつむく児童たちを見て言った。
「わたしの話はここまでです。さあそこで、今度はみなさんにうかがいます。みなさん、これでいいんですか? このままでいいんですか?」
 景子先生はここでだまった。あとの言葉は、目で児童たちの心の耳に聞かせていた。
(みなさん、いいんですか? このままでいいんですか? 「そうだったのか」と言うだけで、このまま終わらせるだけで、あとで後悔したりしませんか?)
 うつむくクラスの仲間たち。
景子先生は、そんな児童たちを見続けている。期待を込めて待ち続けている。きのうの夕方、景子先生は祖父泉川画伯の訪問を受けた。そこで真実を知り、たくさんのアドバイスも祖父からもらった。石黒先生を怒らせるかも知れないロンドンへの電話も、祖父のアドバイスがあってのこと。こうして先輩教師の教室に飛び込む非礼も、祖父からの間接的な影響によるものだった。祖父は言った。
「いいかい。正しい方向を教えることは必要だが、『だからそっちへ向かいなさい』と言ってはだめだよ。方向を示したら、あとは子どもたちの心の中の太陽が昇って来るのを待ってやるんだ。目覚めれば起き上がる。じぶんで起き上がれば、その信念はゆるぎないものとなる。景子、きみだからできることだよ」
 景子先生は、いま、祖父のアドバイスを受けて待っている。
(この子たちは、きっと答えを返してくれる)
 児童の一人が顔を上げた。純一とは一年からずっと同じクラスの久保元彦だ。
 景子先生が、久保の目を見てうなずいた。
 また一人顔を上げた。谷合恵美子。
 さらに二人。矢板工と吉田清。
最初に顔を上げた久保が立ちあがった。
「あやまるべきはぼくたちです」
 この言葉を受け、全員の顔が上がった。
 クラスでこわもての秋元が、立ち上がると同時に叫んだ。
「このままでいいのかよう! おれたち、こんなことしているだけでいいのかよう!」
「むかえに行こうか?」と大隈が言った。
「行こう!」と叫んで立ち上がったのは、親友だった内川だ。
「そうよ! 行きましょうよ!」
 栗原和子のこの言葉で、全員が立ち上がった。
「あっ、おい、待て! 授業中だぞ! こら待て、おまえたち!」
 あわてて止めようとする石黒先生の腕を、若い泉川景子先生が強い力で引っ張った。
「だめです! 行かせてやって下さい!」
 石黒先生はギョッとして景子先生をふり返り、そしてだまった。
 児童たちが廊下に飛び出し、階段をかけ降りて行く。教室には二人の教師と一人の児童が残った。
 河原崎ゆきえは、静かにドアを押してベランダに出た。バラバラと校庭を突っ切り正門を飛び出して行く級友たち。全員上履きのままだ。
 ゆきえはそれを見送ってから、久しぶりに見るような目で校庭を見た。イチョウがこがね色にそまろうとしている。イイギリの実は早くも赤くそまって、房状にたれ下がっている。空を見ると、小さな白い雲が規則正しく並んでいる。秋特有のいわし雲だ。
(もう、こんな季節になっていたんだ)
 ゆきえは目を閉じ、胸を張り、大きく息を吸った。
(よかった)
多摩の風が、ゆきえの髪をサワサワとゆすった。
                                (おわり)


パソコン故障につき、途中中断がありました。ごめんなさい。このブログ、次回からは『懐かしの昭和二十年代』として、当時への郷愁を語らせていただきます。ご興味頂けるようでしたら、覗いてみてやって下さいまし。かねこたかし