『ちいさなうそ』その15

 石黒先生は続けた。
「とにかく先週は家出。きょうは仮病。あっちへふらふら、こっちへふらふらと、恥らいを知らん恥っかきだ。このままでは、この世に生まれた意味がない」
 じぶんの児童の登校拒否がよほど不愉快だったのだろう。純一に対する石黒先生の言葉は、師弟の枠を飛び出して、感情の流れに任せるばかりだ。
 先生の言葉に合わせて教室内に笑いが起る。ただし腹からではない。言うならば、苦笑いに近いものだ。言葉が過ぎると感じているのだろう。つい先日までの友人のことだから、まゆをひそめる児童もいる。
「さて、びんぼう神の話はここまでにするか。一時間目に入るぞ」
 そのときだった。
「先生」と、一人の児童が手を上げた。
 石黒先生が、(おやっ?)という目でその児童を見た。普段はおとなしく、じぶんから発言するような子ではなかったからだ。クラスの子たちも、意外そうにその子を見た。
「何だ?」と石黒先生が、鼻めがねを押し上げながら聞いた。
 児童は立ち上がった。
「先生はほんとうに、柴山君がこの世に生まれた意味がないと思っていらっしゃるんですか?」
 思いもよらない児童の口から出た、思いもよらない発言。クラス中のおどろきの目が河原崎ゆきえに集中した。
「おいおい、どうしたんだ。おまえまで暗くなるなよ。びんぼう神は一人いればたくさんだぞ」
 先生は少しおどけた調子で言ってから、「だよなあ」と、みんなの同意を求めた。しかし、クラスのだれもが笑わなかったし、うなずく児童もいなかった。河原崎ゆきえの生きた目が、みんなの心をゆさぶったのだ。
 河原崎ゆきえは、石黒先生を正面から見てキッパリ言った。
「柴山君を暗くしたのは先生です」
「何?」
 先生はキッとした目で鼻めがねを押し上げた。
「先生が、ちっとも柴山君の悩みを取りのぞいてあげようとしなかったからです」
「おい、どういう意味だ。言ってみろ!」
 石黒先生のまゆ毛の横がピクついている。
しかし、河原崎ゆきえはひるまなかった。ひるむどころか、正面から石黒先生を見据えている。それは、だれ一人として想像できることではなかった。弱者が強者に変身したとき、強者ぶっていた者は、一気に弱者に転落する。河原崎ゆきえと石黒先生の関係は、まさにそれだった。
「まあまあ、なっ、落ち着けよ、河原崎
いま「言ってみろ!」とどなっておきながら、一転「落ち着けよ」と、なだめにかかる石黒先生。その手が、さかんに鼻めがねを押し上げている。
原崎ゆきえは言った。
「先生は、柴山君がどうしてああなったか、考えたことがありますか?」
「…」
「救ってあげようと、考えたことがありますか?」
 河原崎ゆきえの目には、いいかげんな物言いをゆるさない強さがあった。
「柴山君の悩みは、夏休みの宿題の絵から始まっていたんです。柴山君が提出した絵は、水之江さんが描いた絵だったんです。遠い国でさびしい思いをしている水之江さんをはげまそうとやったことなんです。水之江さんも知ってのことです。まさかその絵が金賞になるなんて、二人とも考えもしないことだったんです」
 教室を支配するのは、河原崎ゆきえ一人の声だった。クラスのみんなは、物音ひとつ立てることなく聞き入った。
「それなのに、その絵が金賞になったばかりか、区の広報誌にも載ることになったんです。そうなると、区民全部をだますことにならないかって。そのことで柴山君は悩み始めたんです。どうしよう、どうしようって。小さな親切が、大きなうそに変わってしまうと思ったんです。水之江さんはもういない。だれにも相談できない。だから、一人ではたえられない苦しみを、一人で背負うことになってしまったんです」
「そういうことなら、じぶんたちのインチキが原因じゃないのか? それって、じぶんのせいじゃないのか?」
 石黒先生は、逆転のチャンスをねらった。
「柴山君が学年中で一番絵が上手なことは、だれもが知っているし認めています。柴山君は、遠くでひとりぼっちになる水之江さんのために、じぶんの賞を捨てたんです。犠牲になるのはじぶんだけ。だれにも迷惑をかけないでできる親切のはずだったんです。それが、たまたま賞に入ってしまっただけのことなんです。その親切に対して『あいつは、びんぼう神だ』なんて。先生、先生はほんとうに、柴山君がこの世に生まれて来た意味がないとお考えですか? 柴山君は、生きていてはいけない人間なんですか? 必死につかまろうとしているロープを、先生はわけも聞かないで、平気で切り離してしまうんですか?」
 河原崎の目は、ぶれることなく石黒先生を見すえていた。
 石黒先生は河原崎ゆきえから目をそらすと、めがねを押し上げ、味方をさがすように児童たちを見回した。児童たちは、その目をさけて下を向いた。
「失礼します」
 教室のドアが引き開けられた。顔を見せたのは泉川景子先生だった。
「授業中に申しわけありません」
 景子先生は、せんぱいの石黒先生に深々とおじぎをした。
「いまの話、廊下で聞いてしまいました。だからわたし、石黒先生や教室のみなさんにあやまらなくてはいけないと思ったんです。こんな形で飛び込んで、でも、とても重要なことなんです。一言だけしゃべらせていただいてもよろしいでしょうか?」
 石黒先生は不快そうに景子先生を見たが、すぐに目をそらせて「短く願いますよ」と言った。
「ありがとうございます」
 泉川景子先生は、もう一度石黒先生におじぎをしてから、子どもたちに向き直った。
「いま河原崎さんが言ったこと、ほんとうです。昨夜、わたしは水之江さんのお宅に国際電話を入れました。金賞の絵の下地が水之江さんの筆づかいに似ていると、おそまきながら気づいたこともありましてね。この電話で、逆にわたしは、びっくりすることを聞かされました。水之江さんや水之江さんのご両親は、柴山君のことを知っていたんです。まさにその日とどいた一通の手紙が、いまの柴山君の苦悩を知らせて来たと言うのです。手紙の主は…河原崎ゆきえさんです」
「……!」
 声にも出せない驚きが、みんなの顔に現れた。すべての視線を身に受けながら、ゆきえは静かに立っている。景子先生は、そんなゆきえに目をからませて、静かにしっかりうなずいて見せた。(続)