『小さなうそ』その13

「空を見てごらん」と、おじいさんが言った。
 言われるままに空を見た。
「大きいだろう。どこまでも澄んでいるから青い。太陽があるから明るい」
「…」
「真田の絵には、いつも太陽が描き込まれていた。こんな雄大な空のもとに生きていながら、地球の小さな吹きだまりで、小さなことに悩んでいるなんてバカ気ている。真田はそう思っていたにちがいない。以来わしは、こうすることにした」
 そう言うと、おじいさんは太陽に向かって、口をいっぱいに開けた。そして、リンゴでもかじるかのようにガブリとやった。
「こうすることで、心がド〜ンと大きくなる。あの大きな太陽を飲み込んだからな。心が大きくなったら、大きな空を描くんだよ。するとどうだ。こんな小さな長方形の紙の中に、大きな空が取り込めちゃうんだ。何億倍もの景色を、一枚の絵の中に取り込んでしまう。そうなったら、小さな悩みなんか吹っ飛んじゃうぞ。心の底からスカッとするんだ。だから、わしは絵を描き続ける」
「…」
 おじいさんは、大きな空を見ながら言った。
「一つ聞かせてくれないか」
「何を?」
「好きな絵を、どうしてきらいだと言ったんだね?」
「…」
「言えないか。まだ、太陽を飲み込んでいないからなあ。わしが見るかぎりハッキリしているのは、きみは絵が好きだったのではなく、いまも好きだということだ。きみは決して絵を手放さない。『ああ、手放さなくてよかった』と、あとできっと思うだろう。あの真田が、あの苦痛ばかりの真田が、わしに教えてくれたことなんだ」
 ここでおじいさんは、ポケットからチラシを一枚取り出した。
「悩めるきみには気の毒だが、わしは大助かりさ。きみは、長いことごぶさただった真田を呼び出してくれた。お台場百景は、きみと真田のおかげで有終の美を飾れそうだ。これ、個展のポスターチラシだよ。時間があったら見に来てくれないか」
 渡されたチラシには『泉川一平展・お台場百景』とあった。
「おじいさんは、泉川さんって言うんですか?」
「うん。覚えてもらえたらうれしいな」
「この名前なら忘れませんよ。ぼくの学校の絵の先生と同じだから」
「ほ〜う、学校の絵の先生ねえ。それは女の先生かな?」
「そう」
「もしや矢口町小学校か?」
「えっ、どうして…」
「泉川景子先生」
「どうしてそれを!」
「ほ〜う、そうだったのかあ。あっはっはっは…」
 おじいさんは、とつぜん大きな声で笑い出した。
「そうかそうか、きみだったのかあ。あっはっはっは…」
 何のことだか分からない。
「おじいさん、泉川先生を知っているんですか?」
「景子はわしの孫だよ」
「えーっ」
「景子のやつ、困っていたぞ。絵の素質のある子が急にふさぎ込んでしまい、わけを聞いても話してくれないって。先週の金曜日には、とうとう登校もしなかったと。それ、きみだよな。お台場にいたもんな」
「…」
 純一はだまり込んだ。どう言ったらいいのか、すっかり頭が混乱していた。
 おじいさんは「うんうん」とうなずいた。
「景子の心配はもっともだ。三日前に会ったときから、わしも少しばかりきみのことが気になっていた。台場公園から見たきみの背が、ずいぶん丸まっていたからなあ。…どうだい。良かったら話してみないか? 太陽に、悩みを食わせてしまわないか?」
 純一は、ふしぎな気がした。心の中で対立していた〝純一A〟と〝純一B〟が、そろって「話してしまえ」と言い出したのだ。
(なぜ、たまたま町で出会っただけのおじいさんに?)
 純一の心はゆれた。
 おじいさんは、純一がしゃべり出すのを気長に待った。
「ぼく…」
 おじいさんが、静かにうなずいた。
「ぼく…ついてはいけないうそをついてしまったんです。おおぜいの人をだますことになりそうなんです。何十万人の人をだます〝大うそつき〟になるんです」
「何十万人か。頼もしいじゃないか」
 おじいさんは、少しもおどろくそぶりを見せなかった。
 純一の目に、熱いものが込み上げて来た。
 ぽろり─と、最初のしずくがひざに落ちた。
「友だちの絵をぼくの絵だとうそをついて…、それを景子先生に…」
 純一は、とつとつと言葉をつなぎ始めた。この件に関する、これが純一の初めての告白だった。
 おじいさんは、その一言づつにうなずきながら、言葉をはさむことなく聞いてくれた。
 純一は、その事実を一つとして隠すことなく、時間をかけてすべてを話した。
 話し終わると、おじいさんは「つらかったなあ」と言って、純一の肩をやんわり抱えた。
「でも、つらかったのはここまでにしよう」
 おじいさんは、遠方を指差した。
「ほら、噴水のずっと右。あそこに大きな木が一本立っているだろう」
 純一は、伏せていた目を少し上げた。
「深い紅色の花がきれいだよなあ。アメリカデイコって言うんだ。花はもちろんだが、密につけた葉っぱの緑も美しい。太陽光を受ける名キャッチャーって感じかなあ。いやね、言いたいのは葉っぱの数さ」
「……」
「あの木に限ったことではないがね、一本の木に付く葉っぱの数というのは、数え切れたもんではない。ところがだ、人間が一生のうちにつくうその数となると、あんなもんでは納まらない。だれもが無数のうそをつく。きみのうそも、その無数の中の一つでしかない。たいていが、たわいもないものだったり、ユーモアだったり、善意のためのうそもある。きみのうそは、その三つのミックスだな。受賞は余分だったようだが、問題はない。きみはその事実を、あした景子に、きみの口からハッキリ話してごらん。景子なら、すぐに時計の針を作品展にまで戻してくれる。楽しい想い出話に育ててくれるよ」
 おじいさんはそう言って、純一の肩をポンとたたいた。
「そうだな。これだけはハッキリ言っておこう。絵は捨てるなよ。景子の話だと、きみの絵は相当にいいらしい。絵がいいということは、描き手の心が絵の中に宿っているということだ。捨ててはいかん。絵を捨てるということは、心を捨てることになる。じぶんを捨てることになる」
 ここでおじいさんはニヤリと笑った。
「ただしだ、陰付けのところでも言ったことだが、絵にはうそが通用しない。まあ、そこが〝うそも方便〟の人間さまとは少しちがう。太陽を飲み込んでかかること。あっはっはっは…」
 おじいさんは、肩をゆすって大笑いした。(続)