『小さなうそ』その11

 おじいさんはこのあとも、絵の基本についていろいろ話した。
「うん。陰は一気に彩色すると言ったけど、その彩色も、遠くの陰から始めることだ」
「水面の陰は筆を左右に動かしながら、ぼかしぎみにな。ほら、こんな具合にだよ」
「波の様子は、白や青の線を描き込むのが基本だよ。…そ〜ら、どうだい? 感じが出て来ただろう。むずかしそうだが、手順を覚えてしまえば、あとはどうということもない。さあ、波のつぎはどこに移ると思う?」
 あっと言う間の一時間半。純一はおじいさんの絵の手順や筆づかいの技を、心の中にきざみ込んだ。途中からは質問もした。なごやかな空気が、大きく世代を超えた二人を、温かく包み込んでいた。
 絵が完成した。
「その絵、どうするんですか?」
「来月、個展を開くんだよ」
「個展ですか! すご〜い」
「テーマは『お台場百景』。あと二点ほど描いたら出展準備は完了となる」
「じゃあ、あしたもお台場に来るんですか?」
「天気ならばね。また会えるかな? また会えるのは楽しいけれど、想像するに、会えなくなるのも、それはそれで良かったってことかなあ。絵はいいもんだ。絵を捨てるなよ」
 このあとおじいさんは、「わしは、捨てない方にかける。きみのために」と、そんな言葉で最後を結んだ。
 おじいさんと別れて、ふたたび純一は歩き出した。気のせいか、さっきよりだいぶ足が軽くなっていた。
(あしたはどこを描くのかなあ)
 見回せば、絵になる構図はたくさんあった。海上を走る水上バス。ウィンドサーフィンを楽しむ人たち。群れて飛び交うユリカモメ。みどりの中のプロムナード。デラックスなホテル群。目の前には、さっきも通った自由の女神…。
 ふたたび間近に迫った自由の女神を見上げたとたん、足がド〜ンと重くなった。同時に、頭の中から絵のいろいろが追い出された。
(ふん、何が自由なもんか!)
 自由の女神を避けるように通り過ぎると〝夕陽の塔〟。そこからは潮風公園だ。上空の旅客機が高度をグングン下げている。羽田に着陸する便だろう。
(あれって、どこから来たのだろう? もしかしてロンドンかも…)
 ヨーロッパ便は羽田にほとんど来ないと知っていながら、頭が勝手にロンドン便を想像してしまう。純一は、そんなじぶんに腹が立った。
(もういいって、イギリスは!)
 ムッとして足元の石ころを蹴る。
 当たりそこねた石ころは、だらしなく転がり、歩道わきの柵をくぐり海の中にポチョンと落ちた。クツの当たり方も面白くないし、転がり方も面白くない。海面への落ち方だって面白くない。何から何まで面白くない。
(やり直し!)
 純一は石を探した。近くに、こぶし大の石があった。それを手にすると、海に向かって「エイッ!」と投げた。
 ドボ〜ン!
 おどろいたのは、水入らずでたわむれていたウミネコ一家だ。いきなりの攻撃を受け、バタバタとアワを食って飛び立って行く。
「おい、きみ!」
 ふり返ると、おまわりさんが立っていた。
「あぶないじゃないか。動物ぎゃくたいは犯罪だぞ」
(わざとじゃないよ。あんなところに海鳥がいたなんて、知らなかったんだ)と言いたかったが、そんな言いわけ通用しない。純一は、ペコリと頭を下げてうつむいた。
「きみ、学校はどうしたんだ?」
「…」
「さぼりか?」
 おまわりさんは、胸のポケットから手帳を取り出す。
「学校、名前、住所を聞こうか。まず学校から言って」
「矢口町小学校」
「矢口町? 何区?」
大田区立」
大田区立矢口町小学校…と。何年?」
「六年」
 このあと純一は、名前、住所、自宅の電話番号などを聞かれた上、お母さんに電話を入れてその真偽まで確認された。

 その夜の純一は、両親のうろたえぶりを人ごとのように見ていた。どう言われても学校へは行かないぞ─と決めていたから、こわいものがなくなっていた。不登校の理由も言わないことに決めていた。お父さんは、なだめたり、すかしたり、どなったり、こっけいなほど表情を変えた。お母さんは、目にハンカチをあてていた。その涙を見るのはつらかったが、それでも純一は、一度決めたことを破ることなく、ついに最後まで首をたてにふることはしなかった。
 一夜が明けると、幸いにしてその日は土曜日。翌日の日曜と合わせて、純一は二日間を自室で過ごした。「いらない」と断った食事は、お母さんがその都度、涙目で部屋まで運んで来た。
 さて月曜日─。
 じつはこの日も体育の日の振り替え休日。
 その朝、純一は家族とともに食事をとった。会話はひどくぎこちなかった。カウンセラーのアドバイスを受けたのだろう。両親は、ときおり顔を見合わせながら、必死に言葉を選んでいた。
 朝食をすませた純一は、ふらりと一人で家を出た。玄関口で「どこへ行く?」と聞いた父には、「そのへん」とだけ答えた。つらかったのは母の視線。無言で見送るその視線が、背中に刺さる感じで痛かった。
「そのへんだよ」と答えた行き先については、宛てが有ると言えば有ったし、無いと言えば無かった。道はどこかに通じている。とにかく歩き出してみるしかない。矢口町小学校のエリアの外へ。(続)