『小さなうそ』その10

 台場は人気の観光スポットだが、ウィークデーの朝ともなれば、さすがに人はまばらである。純一は、磯辺のプロムナードをゆっくりと歩いた。
 水上バスの発着所を過ぎると、左手に人工の砂浜が広がった。ユリカモメの一群が波間でプカプカただよっている。
 右手は商業ビルの『アクアシティーお台場』と『メディアージュ』。その先はアミューズメントの『デックス東京ビーチ』。入り江にそったカーブを進むと、外敵・黒船を迎え撃つために造られたという人工島の『第三台場』に行き着いた。人工島は、その後の埋め立てによって陸続きとなり、現在は公園として一般に開放されている。
 その公園、午前の早い時間とあって人影がない。家出少年には願ってもない環境である。純一は、小さな公園の四角い外周路を歩き始めた。
 最初の角を曲がると、さっき通ったばかりの砂浜が湾を隔てて見えた。テレビ局の球体ビルも見える。その右手前に見えるのは、いまの純一には、どこか気に入らない自由の女神像だ。
 二つ目の角を曲がると、人工の海浜公園が絵のように広がった。洋画を見るような風景で、純一が望む〝遠隔の地〟が感じられる。
 外周路の前方に目をやった純一の足が止まった。五十メートルほど先に、ひとりの人物を見たからだ。
 折りたたみ式のイスに腰を下ろしている人物。キャンバスが見える。海浜公園と向き合っている。グレーのつば広ぼうしに空色のシャツ。アゴに白いヒゲをもっこりさせたおじいさん。絵筆をふるっているようだ。
 純一は一瞬ためらったが、横にそれる道はない。引き返すのも変だから、そのまま進むことにした。おじいさんの背後を通り抜けることになる。
 おじいさんの背後にかかったとき、肩越しにキャンバスの絵が見えた。まだデッサンの段階だ。(いまさら絵なんか)─と道々思っていた純一だったが、おじいさんのそれを見た瞬間、何の指令もなく純一の足は勝手に止まった。デッサンが、あまりにすばらしかったからだ。空と海と浜、そしてバックの建物群。テレビ局の球体展望台や、更に後方の観覧車も描き込まれていた。構図のみごとさ。遠近の確かさ。(うまいなあ!)と、心の中で称賛の声をあげた。
「どうしたんだい?」
 突然の声に純一はびっくりした。声の主はおじいさん。しかし、おじいさんの顔はキャンバスに向けられたままではないか。
(これって、おれに聞いたのかなあ?)
 とまどう純一に、おじいさんは前方を見据えたまま重ねて聞いた。
「学校だよ。学校はどうしたんだね?」
「…それ、ぼくのこと?」
「ここには、わしときみしかおらんだろう」
 おじいさんは、相変わらずキャンバスに目を注いだままだ。
「きょうは、創立記念日だから…」
 純一は、その場しのぎの答えを返した。
「うそだな」と、おじいさんが軽く言った。
 純一はムッとした。
(こっちのことなのに、余計なお世話だ)
 立ち去ろうとする純一を、「ただし…」と、おじいさんの声が追いかけた。
「うそにはうその意味がある。正義と思えるうそもある。思いがけない真実が、うそに隠れていることもある。あっはっはっは…」
 ここでおじいさんは、初めて純一をふり返った。
「だからねえ、学校の話はどうでもいいんだ。背が丸まっていたぞ。あの浜を歩いている姿がねえ。ここからよく見えるんだよ」
 おじいさんは、前方の海浜公園を差して言った。
「まあいい。ところで、絵は好きか?」
「好きじゃありません」
「うそが多いなあ」
(フン。おれのこと、何も知らないくせに)
「立ち止まるタイミングで判るんだよ。絵心があるかないか」
 おじいさんがニコッとした。
「絵を見る目を持っているようだな。ほら、デッサンが終わったところだよ。朝の七時からだから、ここまでちょうど三時間。きみは一枚の絵で、どのくらいの時間をデッサンに費やすんだね?」
 まともな質問だったから、これには素直に答えた。
「一時間くらい」
「おおそうか。いい絵を描いているなあ。いまはそれで十分だ。だがそのうち、もっとデッサン時間が欲しくなる。デッサンというのは家を建てるときの最初の作業みたいなものだ。位置を定め、土台を固め、柱を立て、かべを作り、屋根を乗せる。どれ一つとして手抜きができない。わしは一枚の水彩画を完成させるまでの時間のうち、三分の二をデッサンにあてるんだよ」
「…」
「絵はデッサンで決まる。あとの彩色は、かべや屋根にペンキを塗るようなもんだ。この絵は、ここから彩色に入る。そこでだ、きみならどこから塗る?」
「遠い建物から」
「うん、いいぞ。それが基本だ。わしも遠くから入る。ただし、わしは建物より、もっと遠くからだな」
「空?」
「そうだ。ほら、見てごらん。こうやって平筆で空一面に水を塗り、かわく前にコバルトブルーとセルリアンブルーの混色だな。部分的に塗り重ねることでグラデーション効果も出す」
 おじいさんは実演講座のように、一筆一筆、説明をつけ出した。
「つぎは、どこを塗る?」
「遠い建物」
「うん。答えとしては悪くない。だが、わしの答えとしては少しちがう」
「どこ?」
 純一は反射的に質問した。じぶんでは気づいていないことだったが、二人の会話が、純一の頭の中の悩みごとを、すみの方に押しやっていた。〝絵の話題〟の勝利と言っていい。
「わしの答えは陰だよ。日陰の部分だ。ビルの陰、木の陰、海面に映る船の陰。太陽はこの時間、東から昇っているだろう。だから、それぞれの西側が陰っている。陽はかたむいたり、雲がかかったり、描いている間にも光りの具合は変わる。ビルの陰を描いているときに雲が出たら、まだ描いてない部分の陰が見えなくなってしまう。それは困るよな」
「うん」
「だからといって、思い込みや想像で陰をつけてはいけない。陰のつけ方がおかしいと、立体感が出なくなる」
(なるほど)と、純一はうなずいた。
「知っているかな?『うそも方便』という言葉がある。うそは良くないが、物事を良い方面に導くためには、時としてうそをつかなくてはならないこともある─といった意味だな。でもそれは人間生活の中でのこと。絵はちがうんだ。絵にはうそは通用しない。だから、どの陰も同じ条件の中で一気に着彩するんだよ」
(そうなんだ! いいこと聞いたぞ)
 純一の目が久しぶりに輝いた。(続)