『小さなうそ』その9

 区の広報誌の担当者が、絵の写真を撮りに来る日─。
 その朝、純一は登校しなかった。最初は登校するつもりだった。いつものようにランドセルを背負って家を出た。ランドセルを背負うと頭がズ〜ンと重くなる。原因は判っていた。教室に入るのがこわいのだ。教室には一匹のウルトラ妖怪と、三十二ひきの小悪魔もどきの妖怪がいる。それだけで十分こわいのに、この日は区役所からも、絵の写真を撮りに、もっとすごい妖怪がやって来る。純一は背中を丸めてノロノロ歩いた。
 そんな純一の脇を、風を切って走り抜けて行くヤツがいた。見るとはなしに見たら、親友のはずの内川だった。肩を叩くでもなく、「おはよう」でもなく、無言で走り抜けてしまった元親友。純一の目がメラメラと燃えた。がまんのならないことだった。
「くそっ!」
 足もとの小石を思い切りけりつけた。小石は郵便ポストにコーンと当たり、はげしく車道に跳ね返った。下級生が、ギョッとした目で純一を見ている。
「ふん!」
 純一は、くるりと向きを変えると、いま来た道を戻り始めた。すれちがった児童たちが、けげんな顔でふり返る。
 家まで戻ったが、家の中には入らなかった。中からそうじ機の音が聞こえる。純一は足音を忍ばせて裏に回ると、物置の中にランドセルと黄色いぼうしを押し込んだ。
(さあ行こう。どこかへ行こう。とにかく家から離れることだ)
 行き先を定めないまま純一は歩き出した。
 十数分後、純一は東急多摩川線・矢口の渡駅の改札口前に立った。
 運賃表を見上げる。ポケットの中の右手が小銭入れをにぎっている。普段は持ち歩かないものだけど、ここ数日は持ち歩いていた。悪魔のささやきだろうか、何となく使う予感があったからだ。
(どこへ行こう?)
 これといった行き先が思い浮かばない。
(チェッ!)
 純一は、切符を買わずに歩き出した。
 学校とは反対方面。足が勝手にそっちへ向かった。
 三十分も歩いただろうか、JR蒲田駅に突き当たった。
 階段を上る。
(おれは、どこへ行ったらいいんだ)
 掲示板に旅を促すポスターがあった。
『感動の舞台をめぐる旅・古都京都』
『四季の彩りが誘う秋田』
『島まるごとテーマパーク隠岐
東京湾周遊クルーズ』
東京湾…そうか。海へ行こう!)
 ここからの海なら、羽田沖か、横浜港か、東京湾か? 純一はちょっと考えてから、浜松町までの切符を買った。
 京浜東北線に乗る。平日の午前とあって子どもの姿がいない。目立つのはいやだ。ホームとは反対側のドアにへばりついて、顔を外に向けたまま、(早く着いてくれよ)と心で願った。
 五つ目の駅が浜松町。下車して改札を出る。
 左に行けば東京タワー。海なら右だ。もちろん純一は右を選んだ。
 七分ほど進むと潮風香る桟橋に出た。竹芝桟橋と書いてある。伊豆の島々への定期船はここから出ている。
 ボォワ〜ン!
 ドラが鳴った。東海汽船伊豆大島行きの出航だ。純一はふ頭に立って、その出航を見送った。
 白いレインボーブリッジが、朝日をあびて輝いている。
 レインボーブリッジが架かる対岸に、巨大な球体を宙に浮かせたような奇妙な建物が見えた。それが友美のお父さんが働く会社であることを、純一は、テレビで何度も見て知っていた。
 ふ頭からぶらりと大通りに出ると、目の前に新都市交通『ゆりかもめ』の竹芝駅があった。
(これに乗って海を渡ろう)
〝海を渡ろう〟とはオーバーだが、東京湾の一部を渡ることにちがいはない。渡れば、学校とは陸続きではなくなる気がした。生きる世界を分ける気分。純一は、ポケットの小銭入れを握りしめてから『ゆりかもめ』の改札口へと通じるエスカレーターに乗った。
ゆりかもめ』は待つこともなくすぐに来た。
 平日の朝の『ゆりかもめ』にも、JR同様、児童の姿はない。車窓に広がる絶景は見事だが、それを楽しむそぶりの大人もいない。景色に無関心ということは、ほとんどがお台場を職場にしている人たちなのだろう。私語も聞こえず少々不気味。それを(能面電車みたい)─と感じている純一自身も、よそから見れば能面の一人。ここでもドアーに顔をへばりつかせ、流れる景色をぼんやり見ていた。
 芝浦ふ頭を過ぎた『ゆりかもめ』が、ループを描いてレインボーブリッジへと昇って行く。景色が海から陸へと変わり、陸地の東京タワーが見えて来た…と思う間もなくタワーは去って、ふたたび東京湾が広がった。
 ブリッジの最上部に差しかかった。眼下は海。正面の晴海ふ頭に白い大きな船がとまっている。
(あの船、どこまで行くのだろう?)
 丸い地球の大きな海は、どこまで行っても水平線のようだけど、いつかはどこかにたどり着く。そこは地球の裏かも知れない。
(地球の裏なら、水之江さんがいるということ)
 純一は、レインボーブリッジを渡ってから二つ目の駅『台場』で降りた。そこでなくてはいけないわけではない。海が見えればどこでもよかった。丸い地球を実感したいだけだった。たまたまそこは、水之江友美のお父さんが勤める会社に一番近い駅だけど、「ただのぐうぜんだよ」と、だれに言うでもなくつぶやいた。
 テレビ局には向かわなかった。石だたみを行くと、目の前に自由の女神像が現れた。聖火をかかげて立っている。順一は「おれは自由じゃないよ」とつぶやいてから、脇の階段を下って磯に出た。
(あっ、さっきの船だ)
 晴海ふ頭にあった白い大きな客船が、レインボーブリッジをくぐって外洋へと向かっている。
(あれって、イギリスまで行くのだろうか?)
 何となく、行きそうに思った。(乗せて行ってくれないかなあ…)と、そんなことも同時に思った。(続)