『小さなうそ』その8

 明日は、区の広報誌担当者が絵の写真を撮りに来る。
 純一は水之江友美を思い浮かべていた。友美は真実を知るただ一人の人である。大きく育ってしまった〝小さなうそ〟の苦しみを、判ってくれる人がいるとすれば、それは友美でしかない。
(水之江さんがこの現実を知ったら、何て言うだろう?)
 純一は苦しい胸のうちを、友美に告白したいと考えた。
 放課後、校舎の裏庭で孤独の時間をつぶして戻った教室には、すでに人影がなくなっていた。純一はランドセルからノートを取り出すと、友美への手紙を書き始めた。
 書いては消し、書いては消し、書き上げるまでに一時間はたっぷりかかった。友美の住所は、友美がクラスに宛てた手紙に書いてある。その手紙は教室のうしろの掲示板にピン止めされている。廊下にも人影がないことを確かめてから、友美の手紙を掲示板から外した。
 机に戻って英語の住所を書き写す。
(あれっ?)
 何かが目のはしにチラついた。廊下側の窓だ。上目づかいに廊下とは反対の校庭側の窓ガラスを見ると、廊下側の様子が、ぼんやりだけど映っている。
(だれだろう?)
 純一は、顔を伏せぎみにして目をこらした。無地のシャツにお下げ髪。左右に結んで垂らしている。
(あの髪型、覚えがある。え〜と? …あっ、河原崎だ!)
 同じクラスの河原崎ゆきえ。まちがいないと確信した。
(何であいつが? あいつ、絵のひみつを知っているのだろうか?)
 いまの純一には、周囲のすべてが敵に見えた。少なくとも、じぶんで勝手にそう思っていた。じぶんを密かにさぐる敵。
(くそ! 何をさぐっているのか確かめてやる!)
 純一は、いきなり河原崎に顔を向けた。
「あっ」
 ふいをつかれた河原崎ゆきえは、逃げるタイミングを失った。
「何やっているんだよ、おまえ」
「えっ? あっ、忘れものを取りに来たの」
「だったら、何でかくれていたんだよ。おまえ、おれを監視してるのか?」
「監視だなんて…。わたし、してない」
「うそつけ! ずっとそこにいたじゃないか! 反対側の窓ガラスに、おまえの姿が映っていたんだぞ!」
「ごめん。でも、柴山君を監視してたんじゃないわ。忘れものを取りに来たら柴山君がいたから、つい…」
「つい、何だよ!」
 河原崎は口ごもったかと思うと、一歩二歩と後ずさりし、くるりと背を向け逃げ出した。
「おい! 忘れものはいいのかよ!」
 返事は返らなかった。
(あいつめ!)
 純一は河原崎の席に走って机を開けた。国語の教科書が一冊あった。きょうは国語の宿題が出ている。それをやるには教科書がいる。となるとこの教科書は、確かに忘れものということになる。
(だけど…)と、純一は思った。
(おれが水之江さんへの手紙を書いているところを、河原崎がかくれて見ていたことも事実なんだ。もし、この事実だけが切り取られてうわさにされたら、どうなる? そればかりじゃないぞ。おれからの手紙を読んだ水之江さんが、もしもおれではなく、クラスのみんなに宛てて返信をよこしたとしたら、どうなる? まずい! そんなことになったら、えらいことだ)
 純一は、「くそっ!」と叫ぶと、せっかくノートに書き上げた手紙のページを破り取り、ビリビリにしたあとゴミ箱の中に叩き込んだ。
 友美への手紙を立ち直りのきっかけにする作戦はやめた。だからといって、つぎの作戦があるわけではない。トンネルは長く、その先に針の穴ほどの光りも見えなかった。

 午後四時半。下校をうながす校内放送が流れる中、河原崎ゆきえは三階への階段を上っていた。向かう先はじぶんの教室。さっきは言葉につまって逃げ出したが、国語の教科書がなくては宿題ができない。どうしても、忘れものを持ち帰る必要があった。
(まだ柴山君がいたとしても、事情を話せば判ってくれるわ。それに…)
 河原崎は、柴山純一自身のことも気になっていた。
(柴山君、一人で何をしてたのかしら?)
 六年二組の教室は、三階廊下のつき当たりから一つ手前だ。足音を忍ばせて教室までやって来た河原崎ゆきえは、一番手前のガラス窓から教室内をのぞき込んだ。
 柴山純一は、いなかった。
(よかった)と思う半面、期待外れの感じもした。その期待感とは何なのか、それが、じぶんのことなのにはっきりしない。
 ゆきえはドアを開けて教室に入った。じぶんの机から国語の教科書を取り出し、持参の手さげ袋に入れた。用事はこれですんだ。だがゆきえは、すぐ立ち去ろうとはしなかった。柴山純一の秘密めいた行動が、河原崎ゆきえのうしろ髪を引っ張っていた。
 ゆきえは純一の机の前に立った。机の上に細かなゴミがある。
(何だろう?)
 つまんでみると、消しゴムのくずだった。
 ゆきえは何気なく教室内を見まわした。そして、その目がある一点で止まった。
(あらっ?)
 ゆきえの目が捉えているのは、うしろの掲示板。そこには、水之江友美からクラスのみんなに宛てた手紙がピン止めされている。その手紙が、なぜか裏返しになっていたのだ。手紙は、以前から表止めにされていた。
(確か、きょうも表止めだったはずだわ。それが、なぜ裏返しに?)
 ゆきえは推理した。
(そうか!)
 ゆきえは、じぶんの推理に二度三度とうなずいた。
(柴山君は何かの事情があって、この手紙を手にしたんだ。それを戻すとき、うっかり裏返しに止めちゃったんだ)
 最近の柴山なら、十分有り得ることだった。
(だとすると、なぜ? …えっ、あの消しゴムのくず。もしかして…柴山君、水之江さんに手紙を書いていたわけ?)
 ゆきえは記憶のかぎりをたどってみたが、二人が親しげに会話を交わす場面に出会ったことがない。どの場面を切り取っても、思い当たる接点は浮かばない。別人のようになってしまった最近の柴山。転校してしまった水之江友美。そんな二人をつなぐ糸があったようには思えない。しかし、さっきまで純一がじぶんの机にすっていたことは事実だ。そこに残された消しゴムのくず。裏返しにピン止めされた手紙。事実はいくつも残っているのに、ゆきえには、それらのナゾが解けなかった。(続)