『小さなうそ』その7

(このままでいいのか? だまっていていいのか?)
 純一の心は、日に日に重くなってゆく。あと一ヵ月半もすれば、広報誌が区民すべてに配られるのだ。水を含んだ砂袋を背負わされた思いがした。
『ココロ』の絵に金賞のリボンがつけられてから十日が過ぎた。
 純一は、もともと明るく活動的な少年だった。勉強はそこそこだけど、絵には自信を持っていた。いじめることもしなければ、いじめられるタイプでもない。友だちの多い少年だった。
 その純一が、たった十日足らずで変わった。あんなに楽しんでいた昼休みのサッカー遊びにも加わらず、校舎にもたれかかって足もとを見つめるだけ。親友の内川が誘っても、ただ首をふるばかりだ。最初のうち気づかっていた友人たちが、一人去り、二人去り、とうとう親友の内川までが、純一に声をかけることをしなくなった。
 心の中では、相変わらず〝純一A〟と〝純一B〟が争っている。弱ったことに、新たな論者も現れた。〝純一C〟だ。 
〝純一C〟が言った。
(Aの言うように、このままだまっていたとしても、広報誌に載った事実は消せないから、心のキズはいやせない。Bが言うように、「あれは合作でした」と名乗り出たら、その日から「インチキ少年」のレッテルをはられる。どちらも最悪だ。残された方法は一つ。作品の存在自体をなくすことだよ。作品がなくなれば、広報誌に載せたくても載せられない。広報誌に載らなければ、うそを告白する必要もない。どうだ。名案だろう?)
 AがCに聞いた。
(作品をどうやってなくすんだ?)
 Cが答えた。
(展示を終えた作品は、図工室にある。それを盗み出せばいい。一枚だけでは疑われるから、六年生の作品全部を持ち出すんだ。ぐずぐずするな。今週中にも区の担当者が受賞作を撮りに来る。チャンスは今日と明日の二日しかない)
 純一は、こぶしでじぶんの頭をポカリとやった。さすがに盗みだけは容認できない。だから、かぶりをふって頭の中から〝純一C〟を追い出したが、一時にせよ〝純一C〟が登場したことは、それだけ本人の悩みの深さを示していた。

 泉川景子先生は、週二回の授業を通して純一の変化を感じ取っていた。快活だった少年が、古くなった電球のように、日に日に光りを弱めている。話しかけても反応がにぶい。心ここにあらず…なのだ。
 景子先生は、それとなく担任の石黒先生に、純一のことを話してみた。
「先生のクラスの柴山君のことなんですが…」
「あいつが何かしましたか?」
「いえ。あの子、何か心配ごとがあるみたいで…」
「ああ、そのことね。気にしなくていいですよ。あれは休み明け病だなあ。夏休みが終わった直後には、そんなやつがどこのクラスにも一人や二人はいるんですなあ」
「でも、夏休みからは、もう一ヶ月以上たっています」
「いや、問題ない。こっちは、毎日あいつを見ているんですよ」
 石黒先生は、余計なお世話はいらないよ─と言わんばかりの態度で、この話を一方的に打ち切った。
じつのところ、ここ何日も沈んだままの純一を、石黒先生は苦々しく思っていた。そんな矢先に専門教科の先生から受けた指摘だ。いよいよもって面白くない。だからだろうか、ある授業中、石黒先生は「おい、びんぼう神」と純一のことを呼んだ。実際、暗くなっている児童を見ると、石黒先生の気分はなえた。その意味で石黒先生にとっての純一は、確かに「びんぼう神」だった。
「おまえなあ、よその先生の前で、びんぼうづらをするんじゃないよ。おまえがどうのこうのと、つまらんやっかい話が持ち込まれてかなわんのだよ」
 児童の幾人かがクスクス笑う。
「びんぼう神」と言ったことが受けたと思ったのか、その後も石黒先生は〝びんぼう神発言〟をくり返す。そのたびにクラスから、さざ波のような笑いが起こった。

 児童の変化と向き合おうとしない石黒先生を、景子先生は歯がゆく思った。
(このままでは、あの子の将来が危ぶまれる)─。景子先生は、じぶんなりのやり方で、いつもの純一を取り戻したいと考えた。
「あなたの絵は、ダイナミックな描き方もいいし、細い筆のタッチもいいわ。どちらにも、すばらしい素質がかくれている。それを引き出すことに集中しようよ。芸術は心のよりどころなのよ。だれにだってつらいことがあるわ。たぶん、あなたにも…。でもね、そんなつらさや哀しさがあったって、芸術はタフだわ。それに打ち込むことで、きっと心に安らぎをもたらせてくれるはずよ」
 真心のこもった景子先生の言葉さえ、もはや純一にはお荷物だった。すなおに「はい」と言える時期は過ぎ去っていた。じぶんでは思ったことのない言葉が、純一の口から飛び出していた。
「絵なんか、大きらいだ!」
「柴山君、あなたに一体、何が起こったの! お願い。先生に話してちょうだい」
「やだっ!」
 純一はその場を走って逃げた。
(あの子の変化は、いつからだろう?)
 景子先生は、純一に関する記憶を一つ一つたぐっていった。夏休み前の純一、夏休みのすぐあとの純一、金賞を取ってからの純一……と、ここまで記憶をたどったとき、(あらっ?)と思うことに気づいた。夏休み前の絵と、そのあとの絵。そこに、はっきりとした変化があったではないか。
 さらに一つ。作品が区の広報誌に載ると伝えたときに見せた純一の顔。あのときの何ともふしぎな顔を、景子先生は脳裏の中で再現させた。
(確かに変。あの顔、照れじゃないわ。喜んでいなかったのよ。金賞が迷惑だったのかも知れない。そうか。その気で見れば…)
 景子先生は立ち上がった。足早に職員室から廊下へと出る。途中からは小走りだ。向かう先は図工室。受賞作品を、もう一度しっかり見ようと思ったのだ。(続)