『小さなうそ』その5

 二学期が始まった。
 最初の登校日、クラスのみんなは、夏休みの思い出話を山ほど抱えてやって来た。武藤基代は「家族でサイパンへ行って来たの」と言ったし、高井豊は「夏祭りのおみこしに、氏子代表で乗ったんだぞ」と自慢した。ほかにも「星空の下でキャンプファイアを楽しんだ」という岡部裕子。「少年野球で他流試合をしまくった」という水上健次郎。
 純一にも、しゃべりたいことがあった。友美と過ごしたあの日のこと。そして、絵のカラクリのこと。どちらも大きな感動だけど、それは二人だけの秘密である。二人だけが共有する刺激的な宝である。ユメの中ならしゃべりまくってやるところだが、この場でしゃべるわけにはいかない。
 始業ベルが鳴ると、クラス担任の石黒先生が、いつものように鼻メガネを人差し指で押し上げながらやって来た。この先生、感動をどこかに置きわすれて来たような人。久しぶりの顔合わせにも笑顔を作らない。教壇に立つと、「きょうから二学期だ。それなりのことはあっただろうが、頭を切り替えろよ」とだけ言って、再会にふさわしい言葉もないまま出席簿を読み上げ始めた。名簿は女子から。
「大友」
「はい」
「久保田」
「はい」
「小宮」
「はい」
「浜田」
「はい」
 応える児童の顔を見るでもなく、たんたんと続ける。
「深井」
「はい」
「松本」
「はい」
「丸山」
「はい」
 一学期までなら丸山のつぎが水之江友美だ。(何と言うだろう?)と注視していた純一に、石黒先生は肩透かしを食わせた。以前からそうであったかのように、「水之江」の名前を飛ばしたのだ。
「森」
「はい」
「吉岡」
「はい」
 何人もの児童が(おやっ?)という顔で、教室内を見まわした。
 女子のあとは男子。最後の「吉田」までを一気に読み上げた石黒先生は、出席簿をパタンと閉じた。空席はただ一つ。石黒先生は鼻めがねを押し上げながら言った。
「ここに、みんなにあてた手紙がある。水之江からだ。じつは急な話でみんなには伝えることができなかったが、水之江は夏休み中に転校した」
「えーっ!」
「新しい学校は、海の向こうのイギリスのロンドンだ」
「えーっ!」
 おどろきの声が立て続けに起こった。クラス委員のいきなりの転校は、ビッグニュースにちがいない。親しい女子児童何人かには事前に知らされ、小さな歓送会も開かれたようだが、男子児童は全員が寝耳に水。始めて聞かされた話だった。
 それなのに石黒先生はそっけない。
「野崎、みんなに読んでやれ」と、友美の手紙を一番前の野崎洋子のつくえにポイッと投げた。
 野崎洋子が立ち上がって読み始めた。
「みなさん、お元気ですか? 夏休みは楽しかったですか? わたしは父の仕事の関係で、いまはイギリスのロンドンです。急なことでしたので、みなさんの前でお別れを言うこともできず、残念に思って手紙を書きました。わたしは間もなく、こちらの中学に入ります。日本人学校ではなく、イギリスのふつうの学校です。問題は言葉です。すべてが英語社会の中にポツンと置かれた日本語しか話せない女の子。果たして授業について行けるかどうか…。最初は解らなくても、その方が早くこの国にとけ込めるというアドバイスがあったからですが、内心はとても不安です。でも、来てしまったのだから仕方ないですよね。がんばります。そうそう。みなさんは、夏休みの絵の宿題をやりましたか? わたし、提出の必要がなくなったのに描きましたよ。ココロの絵です。『心の絵って、どんな絵?』と思うでしょうね。それ、いまは秘密です。さて、父の会社の海外勤務は平均して四年だそうですから、今度みなさんにお会いできるときは高校生かも知れません。それまでみなさん、お元気で。ときどきは手紙下さいね。わたしもときどき書きますから。では、つぎの便りを届ける日までサヨウナラ。水之江友美」
 絵の話になったとたん、純一の顔が火照った。周囲を伏し目がちに盗み見たが、だれもじぶんの変化に気づいていない。純一は胸をなで下ろした。

 登校三日目。二学期最初の図工の時間がやって来た。
 泉川景子先生が、いつもと変わらない爽やかな笑顔で教壇に立った。
 純一は、胸にそっと右手を当てた。脈打っている。
(静まれ、静まれ〜っ)
 だけど心臓は、脳からの指令を無視したまま、ドンドンドンと高鳴っている。
 先生は夏休み中にいくつかの画展を見て回った話をしてから、「プロの絵を見るのは楽しいけれど、初々しいみなさんの絵を見るのも楽しみですよ。みなさんはどんな絵を描いて来たのかな? さあ、名前を呼びますから、呼ばれた順に作品を重ねていって下さいね」
 景子先生が、夏休みの宿題の絵を集め始めた。座席の順に、児童の目を見ながら名を呼びあげる。
「北村君、芹澤君、直井君、丹羽君…」
 呼ばれた児童たちが、つぎつぎと教壇のデスクに作品を重ねてゆく。
「山本君、森園君、江口君」
(ついに来た!)
「柴山君…」
 純一は、先生と目を合わせないようにして、友美の絵を江口の絵の上に重ねた。裏に書いた「柴山純一」の名は、夏休みが終わる直前に書き込んだものだ。じつのところ、そうするまでに純一の心は大きくゆれた。
(もしかして、水之江さんは、指きりげんまんも何もかも、あのこと全部がじょうだんのつもりだったのではないだろうか?)
 そんな疑問が沸いては消える。そのたびに考えがグラついた。
(あれがじょうだんだったとしたら、おれ一人で景子先生をだますことになる)
 純一は、いなかで描いた清流の絵と、友美が描いたココロの絵。その二枚をテーブルに並べて考え続けた。
 夏休み最後の日。決断を迫られた純一は、提出作品として友美が描いた絵を選んだ。
(そうすることが水之江さんとの約束なんだ。二人で決めた二人だけの想い出づくり。指きりげんまんまでしたことだし…)
 水之江友美の本心がどうであろうと、純一は、そう考えることにした。
 友美の絵を選んだ純一は、すぐさま加筆作業に取りかかった。〝じぶんの絵〟に見せるためのカモフラージュ作戦である。この作業、思いのほか大変だった。ベースとなる友美の絵を完全につぶしたのでは意味がない。彼女の筆づかいを生かしてこその合作なのだ。純一は、全神経を筆先にそそいだ。一枚の絵をゼロから描き上げるよりも大変だった。
「ハイ。最後は木村君」
 全員の絵が教壇のデスクに重ねられた。
「みなさん、がんばりましたね。ざっと見ただけでも、いい絵がたくさんありましたよ。今度の作品展、だれが賞を取るか楽しみですね」
 純一はじぶんが出した絵のことで、何か言われはしないか冷や冷やしたが、先生は最後まで、それに触れることがなかった。(続)