『小さなうそ』その3

 小一時間が過ぎたころ、「はい、これでよし」と友美が筆を置いた。
「ジュンちゃん、描けた?」
「うん。ほとんどね」
「わたし完成よ」
 純一が首を伸ばして友美の絵を見た。
「へ〜え。うまいじゃん」
「いいわよ。おせじ言わなくても」
「おせじじゃないよ。寝ている様子が、すごくかわいいもん」
「ありがとう。ジュンちゃんにほめられて光栄だわ。…そうね。せっかくほめてもらえたんだから、この絵、どこかに飾ろうかなあ」
「えっ?」
 純一がふしぎそうな顔をした。
「宿題にするんじゃなかったの?」
 友美は口元をほころばせたが、すぐには答えなかった。ぼんやりとココロの寝顔をながめている。純一もだまってしまい、はんぱな時間が少し流れた。
「言っちゃおうかな」と、友美が独りごとのように言った。
 この言葉に純一は、どこか不吉なものを感じ取った。
「わたしねえ、この絵、学校に出さないの」
「どうして?」
「わたし、夏休み中に引越しちゃうの」
「転校?」
「うん」
「いつ?」
「来週」
 ガラガラと心の積み木がくずれてゆく。赤い積み木、青い積み木、黄色やピンクやみどりの積み木。幼稚園のときから純一が積み上げて来た、心の中の大切な積み木…。
「そこって、遠いの?」
「うん」
「大阪とか?」
 友美が首をふった。
 純一は少し安心した。大阪ほど遠くないのなら、会える機会があるかも…と思ったからだが、つぎの言葉が、そんな期待を吹き飛ばした。
「もっと遠いところなの」
「えーっ、もっと遠いの?」
 頭の中に地図を広げた。
「北海道?」
 友美が、また首を横にふった。
「もっとずーっと遠いの」
「もっとずーっと?」
「おどろかないでね。わたしの行くとこ、ココロちゃんのふる里なの」
「えっ、イギリス?」
「そう。ロンドン」
「地球の裏まで行っちゃうんだ」
 友美のお父さんは、テレビ局の放送記者だ。むかし、友美の家で何度か会っていたし、いまもときどきニュース画面に登場するから、純一はよく知っていた。そのお父さんが人事移動で、ロンドン支局に勤務する海外特派員になったというのである。最初はお父さんだけ先に行き、友美とお母さんは、来春、友美の小学校卒業を待って追いかける予定にしていた。ところが、あちらの新学期は九月から。だったら途中から編入するより、新学期の最初からの方が、学習面においても、友だち作りにおいてもよいだろう─となったのだそうだ。
「だから絵の宿題、描かなくてよくなったの。でもね、せっかく描くつもりでいたんだから、いつ帰れるかわからないこの町の絵、一枚くらい描いておいてもいいかなあって…」
「ふ〜ん。水之江さん、この町を気に入っているんだ」
「だってここ、わたしのふる里よ。ジュンちゃんだって、ここで生まれたんでしょう?」
「まあね」
 純一は、仕上げのつもりでにぎった筆をパレットの上に放り出した。ひざの画板も、芝の上に置いてしまった。その絵を、ゴロリと腹ばいになって友美がながめた。
「さすがよねえ」
「ぜんぜん」と、純一はつまらなそうに答えた。
「いい絵じゃない。気に入らないなら、わたし、もらうわよ」
「おれの絵を?」
「そうよ」
「どうする気?」
「飾るのよ。ロンドンのお部屋に。多摩川が見える町って、完全にわたしのふる里じゃない。最近はアユも戻ったって言うでしょう。遠くへ行けば行くほど、ふる里って恋しくなると思うのよね。そんなとき、町の想い出がお部屋にあったらいいなって、ふと思ったの。それって、ジュンちゃんという幼馴染みの想い出でもあるんだしね」
(おーっ! この言葉!)
 純一の顔がまた火照った。それなのに、純一はわざとぶっきらぼうな言い方をした。
「こんなの、絵のうちに入らないよ」
 確かに自信の持てる絵ではなかった。実写ではないし、平常心を保てない中での制作だったからだ。しかし、それを言ってしまってから(しまった!)と心で叫んだ。じぶんの絵が友美の部屋に飾られる。願ってもないチャンスではないか。純一は、むざむざそれをつぶしてしまった。取り返しのつかない不用意な言葉だった。
 ところが…。友美はいつもの友美だった。いつでもそうして来たように、純一の、後ろ向きと取れる言葉はサラリと流してくれたのだ。
「そうか。わたしは描かないで、ジュンちゃんが描き上げるのを待っていればよかったのよね。ジュンちゃんの絵を飾っちゃったら、わたしの絵なんてみっともなくて飾れないものね」
 純一は友美の絵を見直した。ココロの寝顔が、とてもかわいく描かれている。細かな毛の線の散らし具合も悪くない。(意外とうまいなあ)と、絵の評価を改めた。
「あのさあ…、おれ、あのさあ…」と、純一は口ごもった。
「なあに?」
「おれの絵、水之江さんにやらない」
 友美が(えっ?)という顔をした。
「やらないけど…、おれ、取り換えっこならいい」
「…?」
「おれ、その絵もらいたい。交換しよう。おれ、トモちゃんの絵、もらいたい」
 純一の顔が完熟トマトになっている。「トモちゃん」と呼んだのは、幼稚園以来のことだった。もう会えないと分かったから言えたこと。でも、そう呼んだことがはずかしい。「絵が欲しい」と言ったことも、同じくらいはずかしかった。(続)