『小さなうそ』その2

 友美はココロを芝生に下ろすと、家から持参したビニールシートをサルスベリの木陰に敷いた。
 純一が絵の道具を手にしてもどると、友美はシートのとなりを差して言った。
「ほら、ジュンちゃんもすわれるわよ」
「えっ? あっ、うん」
 純一は、ココロの首にリードをつけて写生しやすい位置につなぐと、おずおずとシートのはしに腰を下ろした。
「おしり、はみ出てない? もっとこっちに寄れるわよ」
「あっ、いい、いい。だいじょうぶ」
 遠慮ではない。(これ以上近づいたら、心臓の早鐘が聞こえちゃうよ)─と、純一は本気で心配した。
 二人はデッサンに取りかかった。
「ジュンちゃんぐらい絵が上手だったらいいんだけどね」
「おれ、そんなにうまくないよ」
「何言ってるの。金賞とか銀賞とか、作品展で賞がつかなかったことある?」
「たまたまだよ」
「いつものことを、たまたまとは言わないわ」
 ココロがかまってもらいたくて、さかんに前足をバタつかせている。
「だめだったら、ココロ! おすわり!」
「いいの、いいの。むりよ。ココロはまだ赤ちゃんなんだから。…あらっ? ごめん。わたしのためじゃないわよね。画家のたまごとしては、モデルに動き回られては困るわよね」
「ちがうよ。おれは関係ないもん」
「えっ、どうして?」 
 友美が純一のデッサンをのぞき込んだ。
「あらっ? 何それ、ココロじゃないんだ。どこ描いてるの?」
多摩川
多摩川って、それじゃ風景画じゃないじゃない」
「うん。多摩川大橋のたもとから、羽田方面を見た構図なんだけどね、前に一度描いているから、イメージが残っているんだよ」
「ふ〜ん。でも、何で?」
「水之江さんが多摩川の絵をココロの絵に変えちゃったから、多摩川、かわいそうかなと思って…」
「薄情なわたしに成り代わってってこと?」
「まあね」
「ひど〜い。こいつめ」
 友美が純一のわき腹を指で押すと、純一は体をくねらせ「ひひっ」と笑った。
 表通りからは、立ち上がったスカシユリの群植が邪魔になって、庭の二人が見えづらい。それなのに、無理やりのぞき見ようとする目線があることを、純一はときどき感じた。(同級生かも知れない)と思うと恥ずかしさが込み上げるが、その一方で、どこか誇らしく思うじぶんがあることも、純一は心の隅で感じていた。
 デッサンを終えた二人は、彩色にかかった。
 純一は数本の筆を使いわけ、遠方の景色からぬり進めている。
「ジュンちゃんの絵ってダイナミックで、自信にあふれているよね。その絵も金賞かなあ」
「これはだめ」
「どうして? 実際の写生じゃないから?」
「そうじゃないよ」と答えたが、その先は言えない。実写じゃないことも理由の一つではあるけれど、(庭の木陰で一緒にいるのがトモちゃんなんだよ。絵に集中なんかできるわけないじゃないか)…というのが本当の理由。だから言えるわけがない。
「写生場所が問題じゃないとすると、何だろう? 金賞取れない理由って」
「理由なんてないよ。ただ…何となく」
「何となく取れない? それだけ? 変なの。ふふ」
 友美の視線がくすぐったい。
「ジュンちゃん、夏休み、どこか行った?」
「行ってない」
「これから?」
「うん。来週いなかへね」
「いなかって、どこ?」
「長野県の佐久。お母さんのふる里なんだ。家の脇に沢があって、ヤマメやイワナがいっぱいいるんだ」
「いいなあ。ホタルもいる?」
「いるいる。庭にも来る。手を出すと、その手に止まったりすることもあるし」
「すご〜い! まぼろしのホタルが見放題かあ。そんないなか、わたしにもあったらよかったのになあ」
「水之江さんのいなかって、どこ?」
「お父さんのふる里は北海道。おじいちゃんのおじいちゃんが、開拓民として新潟から渡ったらしいの」
「すげ〜え!」
「でも、行ったことないのよね。わたしが生まれる前に、おじいちゃんもおばあちゃんも亡くなってしまって」
「そうなんだ。お母さんのふる里は?」
「ここよ。ジュンちゃん、いっしょに行ったことなかった? 今泉神社のそばのおばあちゃんちに」
「あっ、行った! 一年生のころ」
「でしょう」
 純一は赤くなった。こうした小さなミスの積み重ねが、じぶんでじぶんを友美から遠ざけてしまっていた。どんなときのうっかりミスも、友美は聞き流してくれていたけど、(きっとあきれているだろうな)と、勝手に純一は思うのだった。
 二人は絵筆を走らせながら、いなかのこと、友だちのこと、家族のこと…と、思いつくままいろいろしゃべった。
「今年の秋の遠足って、どこかしらね?」
「まだ聞いてない」
「遠足って、楽しかったし、懐かしいわよね。一年最初の遠足が池上本門寺。そのあと羽田飛行場、亀甲山、浜離宮野毛山公園あたりが低学年時よね。四年のときが狭山湖と江の島、五年は観音崎と…、もう一つはどこだっけ?」
「相模湖だよ」
「あっ、そうよね。ジュンちゃん、しっかり覚えているじゃない」
「だって、高井と岩本がふざけ合って、もつれたまま相模湖にドッボ〜ンだもん」
「あ〜あ、あったあった。全身びしょぬれで、バスのガイドさんが最低限必要なパンツとシャツを二人分買って来てくれたのよね。二人には気の毒だけど、あれは笑えたなあ」
 共有する思い出話が飛び出すたびに、二人は声をあげて笑い合った。
 遊んでもらえなくなったココロが、芝の木陰で眠っている。友美が絵にするには、もってこいのポーズである。(続)