児童小説『小さなうそ』その1

「まあ、かわいい」
 ふり返ると、朝顔のからまるフェンスごしに、水之江友美が立っていた。白いブラウスに落ち着いた色合いのスカート。短めの髪が夏空の下では清々しい。手に画板を下げている。純一は照れながら、子犬をだいて立ち上がった。
「生まれたばかり?」
「うん。ちょうど一ヶ月」
「あまり見かけない種類よねえ」
「ビアデッド・コリーって言うんだよ。イギリスの牧場で、ヒツジを追ったりする犬なんだって」
「そうなの。おりこうさんなんだ。名前は?」
「ココロ」
「心? 変わった名前ねえ。どうしてその名にしたの?」
「おばあちゃんちの犬の名がコロなんだよ。そのコロから生まれたコロの子で、ちびコロだからココロ」
「ああ、コロの子だから心臓の方の『心』じゃなくて、小さなコロかあ。おもしろ〜い。うん、呼びなれるといい名かもね。元気なココロ、かわいいココロ、それ行けココロ、明るいココロ。いいテンポだなあ。…ねえ、ちょっとだけ庭に入れてもらっていい?」
「えっ、ここへ?」
「うん、ココロちゃんのところへ」
「あっ、いいよ。そこの木戸から回っておいでよ」
「じゃあ、ちょっとだけね」
 友美と純一は、大田区立矢口町小学校六年二組の同級生だ。幼稚園でも二人は同じクラスだった。家が近いこともあって、幼稚園のころは、よくいっしょに遊んだ。遊びをリードするのは、いつも友美の方だった。
「ジュンちゃん、おままごとしよう」
「え〜え、ままごと?」
「だって、お父さんになる人、いないんだもの。お父さんじゃ、いや?」
「いやじゃないけど…。いいよ。やるよ」
 純一は、ままごと遊びは好きではなかった。友美でなければ「やだよ」ですませることなのに、友美の場合は特別だった。まず遊び相手に選ばれることが第一で、何をやるかは二の次だった。
 近しくありたいという気持ちは、六年生となったいまも変っていない。(あのころに戻れたら…)と、ときどき思う。だけど、いまの友美は、純一からは遥かに遠い存在だ。
 純一が友美との距離を感じたのは、もうずいぶん前である。気がついたら小川をはさんで、友美は対岸に立っていた。最初のうちこそ手を伸ばせば届きそうな距離だったが、時間とともに川幅は広がり、いまや泳ぎ着くのもむずかしそうな大河である。クラス委員としても、部活の部長としても、友美はいつでも輝いている。「おーい!」と叫んでも、もう純一の声が届くようには思えなかった。
 その友美が、木戸を回って純一の家の庭に入った。画板や手さげ袋を芝生に置いて、両手を純一の前に差し出すと、「ココロちゃん、抱かせてくれる?」と言った。
「うん」
 子犬が友美の手に渡った。
「こんにちは、ココロちゃん」
 友美に抱かれたココロが、クンクンと鼻を鳴らしている。
「かわい〜い! ほら、ジュンちゃん、見て見て」
 純一の顔がにわかに火照った。「ジュンちゃん」と呼ばれたからだ。いつのころからか、友美は純一を「柴山君」と呼ぶようになっていた。「ジュンちゃん」と、むかし通りの呼び方をされたのは何年ぶりかのことである。そう呼ばれたのがうれしかった。うれしいのに、体をくねらせたいほど、はずかしかった。
「ほらね。この子、わたしの指なめてる」
「食いしん坊なんだよ」
「ジュンちゃんに似て?」
「まあね」
 純一は、伏し目がちに答えた。
「でもココロって幸せよね。ジュンちゃんなら、お散歩、いっぱいしてもらえそうだもの」
「そんなの、分かんないよ」
「分かる、分かる。元気印のジュンちゃんなんだから」
「勉強は無印だけどね」
「やだ、あははは…」
 友美が明るく笑ったので、純一も「えへへ」とつられて笑った。
「わたしねえ、これから絵を描きに行くところなの。夏休みの宿題の絵、ジュンちゃん、もう描いた?」
「まだ」
「いつ描くの?」
「決めてない」
「わたし、多摩川に行こうと思ってね。土手から多摩川大橋を見るような風景とか、逆に下流の六郷方面を望む風景とかね。『わたしの町』というタイトルなら、橋を渡って川崎側からこっちを描くことになるのかしらね」
「あっちからこっちね。それも悪くないんじゃない」
「そうよね。…でもそれ、やめちゃおうかなあ」
「…?」
「ねえ」
「何?」
「ここで描いたらいけない?」
「ここって、ここのこと?」
 純一は、半信半疑で足元を指差した。
「そう。風景をやめて、ココロちゃんの絵にしちゃおうかなって、いま急に思ったの。だって、かわいいんだもの」
 友美はココロを高く差し上げると、そこからじぶんに近づけて「チュッ」とキスするまねをした。
「ふふふ、尾っぽプリプリさせちゃって。どうせ描くなら、こっちの方が楽しそうよね。ねえ、ここで描いてはだめ?」
 思いがけないことだったので、返事がポンとは飛び出さない。
「わたしがここにいたら、困る?」
「そんな…困るわけないよ。でも、こいつ動き回るから、描きづらいと思うんだけど…」
「あっ、それなら平気。わたし、ジュンちゃんみたいに上手じゃないから、動くのなんか気にならないわ。頭を一つ、足を四本、それに尾っぽを一本つけるだけですもん」
「よく言うよ。絵の賞、取ったことがあるくせに」
「それって、幼稚園のときのことじゃない?」
「取ったことには変わりないじゃん。でもそんなことより、ココロが動いてもいいんなら、ここで描くの、ぜんぜんかまわないけどね」
「ありがとう。じゃあ、宿題はココロの絵と決定ね。ほら、ジュンちゃんも早く絵のしたくをしておいでよ」
「えっ、おれも描くの?」
「それはそうよ。ここ、ジュンちゃんの家の庭じゃない。わたしがここに一人でいたら変でしょう?」
 純一は思わず心で(ラッキー!)と叫んだ。
「でもジュンちゃんは絵が上手だから、わたしと同じ絵を宿題にするなんて、いやかなあ」
(ギョッ。チャンスが逃げてしまう!)
「そっ、そんなことないよ。いま絵の用意する!」
 純一は、あわてて絵の道具を取りに走った。(続)