小説『木馬! そして…』最終回

「驚きました。運命の女神は、一途に願う人を助けるのですね。愛さんのもっとも古い過去を知る人が、この場にいらしたなんて」
 そう言ってから、月丘恵子はハマさんを見た。
「こうなってしまったら、浜松さん、ダメと言ってもわたしが言います」
 ハマさんが、悲しくて悲しくて、悲し過ぎる顔で月丘恵子を見た。
「浜松さん。これだけは口外しないと約束しました。そしてそれを、何十年と守り続けて来ました。でも、いま言います。これをわたしが言ってしまったからといって、不幸になる人はひとりもいないはずですから。言わなければ、むしろ悔いだけをお墓に持って行くことになってしまうでしょう」
 ハマさんが、まだ月丘を見ている。頬を伝って真珠の粒が、ポツリ、ポツリとこぼれて落ちた。
「愛さん、あなたには隠していました。強い約束だったからです。あなたの陰の支えとなって生涯を送りたいというハマさんの強い希望を、わたしの方から打ち壊すことができなかったからです」
「…」
「このハマさんが、この浜松望さんが、愛さん、…あなたのほんとうのお母さまです」
(えっ! この人が、女優元町あかりのお母さま!)
 ホールが一瞬揺れて、直後に全体が固まった。そして、その固まりが解けたとき、音とはならない音、風とはならない風とでもいったものが空気の中を流れはじめた。
 元町あかり、本名月丘愛。その生誕時においての名前は浜松愛。
 その愛が、ハマさんから目を反らせた。複雑な思いが、篠つく雨のように頭の中に降りかかっていた。
(この人が! この人がわたくしを産んだ母! ああ、どうしたらいいの? どういう態度を示せばいいの? 神さま!)
 ハマさんは部屋履きのクツを脱いで座り込むと、こうべを垂れて背を丸めた。
「愛さん。わたしからすべてを説明します」
 月丘恵子がそう言って、閉じ込めたままにしていた記憶の扉のカギを開けた。
「いまから五十年も前のことです。函館市内の乳児院に、ひとりの女性がやって来ました」
 元町あかりは、ふらふらと窓辺に寄った。どこを向いていいか分からない目。その目の向けどころを探すかのようにして…。
 そんな元町を見やりながら、月丘恵子は過去五十年を遡った。
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 昭和三十四年四月。
 函館市内の乳児院にひとりの女がやって来た。
 女は応対に出た職員にこう切り出した。
「わたしの子が、四年前から行方不明になっているんです。こちらに、お心当たりがないかと思って伺いました」
 この時点で職員は不審に思った。(四年前に行方不明となった乳児をなぜいまごろ?)と思うのは当然だった。
「あなたのお名前は?」
「松風波子と申します」
「ではその行方不明となった事情から説明していただけませんか? いきなり四年前と言われても、何の手掛りも掴めませんので」
 女が「はい」と答えて話し出した。
「昭和三十年の四月の終わりのことです。公園のベンチに寝かせていた子が、わたしのトイレのすきに消えたんです。生後間もない男の子です」
 職員は記録帳に目を落としてパラパラとめくった。
「その期間にこちらに来た男の子はいませんね。女の子なら一人いますけど」
 女は即座に聞き返した。
「その子も公園で発見されたんですか?」
「いいえ。その子は祠の前でした。記録には愛という名が書かれていますね」
「その子は、いまどこにいますか?」
「市内の孤児院にいますけど…。でも、それは女の子ですよ。あなたのお探しの子は男の子とおっしゃったでしょう?」
「あっ、はい、男の子です。すいません。お手間を取らせました」
 ここで女は立ち上がると、「ありがとうございました」の一言を残して、風のように立ち去った。
 女が帰ったあと、何となく不審に思った乳児院の職員は孤児院に電話を入れて、そのような女が来たことを伝えると共に、「そちらに廻るかも知れませんから警戒を…」とつけ加えた。
 はたせるかな。その人物と思える女は、その日のうちに孤児院にやって来た。応対に出たのは院長の月丘恵子である。
 女はいきなり、こう切り出した。
「こちらにお世話になっている子の中に、愛という名の女の子がいると思うのですが」
「その子と、どういうご関係ですか?」
「それは…」
「どこから訊いて来られたのですか?」
乳児院からです。四年前の四月二十九日の夕方、乳児が祠の前に放置されていたと聞きました。その子の名前は愛。こちらにお世話になっていると聞きました」
「確かに愛という子はひとりおります。祠の前に放置されていたのも事実です。後にも先にも、祠の前に放置されていたのはこの子だけですから、あなたのおっしゃる子がこの子であることには間違いないと思います。でも、乳児院であなたは、男の子を探していると言われたそうですね」
「はい」
「なぜですか?」
「わたしの素性を隠すためでした」
「なぜ?」
「わたしはその子の親ではないからです。あの子がわたしの子であってはいけないからです」
「意味が判りません」
「いつの日か、わが子に明かそうと思えることならいいのですが、明かすことなく抱いて死んでゆくしかないこともあります。やってはいけないことをやってしまったとき、それを清算するのはじぶんですよね。わたしは罪を犯しました。だからわたしは…」
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 月丘恵子は、浜松望との出会いの場から話をはじめている。
「その女性が、つまり浜松さんが犯した罪というのは…」
 ここで月丘は、いったん話を止めてハマさんを見た。
「言います。言ってしまいます。行きずりのお店にあった現金箱から二千円を盗ったことです。盗ってしまってからハッと気づいたのです。じぶんは罪人になってしまった。このままでは、この子がどろぼうの子になってしまう─と。それで愛さんをじぶんの元から切り離すことを決めたんです。でもこの二千円。そのとき貧乏をきわめていた浜松さんは、お乳が出ない状態になっていたんです。二千円はミルクを買うためだったのです。その二千円がなかったら、愛さんがここにいなかったかも知れないのです。愛さんの命の灯火を守るに必要な最低限のお金だったのです。同じ立場に置かれたら、わたしもそうしていたかも知れません。ジャン・バルジャンが盗った一切れのパンよりも、あるいは切実だったとわたしは思います。でも浜松さんは、罪は罪と考えました。浜松さんはミルクをたっぷり飲んだ愛さんを祠に託して自首しました。孤児院に訪ねて来た浜松さんは、それらをすべて話したあと、わたしにこう言いました」
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「わたしとあの子は親子ではありません。それを前提に、わたしの話を聞き届けて頂きたいのです」
「親子でない?」
「はい。わたしはあの子の隠れた応援団になりたいのです」
「具体的におっしゃって下さい」
 浜松望は一枚の紙封筒を取り出して、院長の前に置いた。
「この中に入っているのは、とても僅かなものですが、これがいまのわたしの力の量です。あの子に必要と思えるもので、これで賄えるものがありましたら、どうか使ってやって欲しいのです」
 月丘院長が中をあらためると、わずか四ヶ月前の昭和三十三年十二月、日本国としてはじめて発行した新紙幣の一万円札が一枚入っていた。当時の一万円は、平均的サラリーマンの月収に近い金額だ。折り目のないピンピンの札。恐らく貯めた小銭を銀行に持ち込み、交換で得た一万円札と思われた。
「これはお預かりできません。そういう規定はこの孤児院にはないのです」
「これ、汚れたお金ではありません」
「そんなことは言っていません」
「でしたらお願いです。お願いですから、このお金を! わたしがあの子にできることは、こんなことしかないのです」
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「浜松さんは、どんなに説得しても、そのお金を引き下げようとはしませんでした。そして口を酸っぱくして言ったのは、じぶんの存在を、永遠に愛さんに明かさないで欲しいということでした。わたしは仕方なく、愛さん名義の口座を作り、そこに一万円を入れました。浜松さんからは、その後もしばしばお金が郵送されて来ました。五千円のときもあれば、二千円のときもありました。その金額を見れば分かります。工面に工面を重ねたことを物語っていますものね。浜松さんの強い希望は、それを愛さんのために使うことでした。そうすることが、母になれない母が考えた、苦汁の中の一灯だったのでしょう」
 月丘恵子の言葉は、そのすべてが窓辺で背を向けている元町あかりに向けられていた。
「愛さん。あなたがある時期から手にするようになったお小遣い、お洋服、本、それらはお母さまからのものだったのです。あなたは賢い子でしたから、周囲の子に分かるような使い方や扱い方はしませんでした。だからわたしも、浜松さんのご希望に副うことができたのです。あなたが独立したときのアパート代の敷金、権利金も、すべてお母さまからのものでした。わたしは里親として、お金に関する限り、ほとんど何もしておりません。みんな浜松さんからの苦労で重ねたお金だったのです」
 元町あかりが振り返った。そして、ハマさんを正面に見た。真実を打ち明けられてから、はじめてその眼でハマさんを見た。その眼で見ているハマさんは、住み込み家政婦のハマさんではない。住み込み家政婦だったハマさんが、浜松望という名前になって、小さく丸くなっていた。
「浜松さんが『とてもつらい』と言ったことがあります。愛さん、あなたが女優として成功し、わたしが『もうあの子にお金はいりません。あの子の方がお金持ちです』と言ったときです。『もう、わたしにはできることがない』と言って泣き崩れてしまいました。わたしも、とても辛かった」
 グスンと、誰かが鼻を鳴らした。
 月丘恵子が浜木みゆうを見た。
「浜木先生。先生だったらどうされたでしょうね。わたしはここで、少々強引とも思える手を考え出したのです。ハマさんを、愛さんの家のお手伝いさんにするという手です。それも住み込みで」
「大胆でしたね。でも、すばらしい手だったと思います。三十年という時の流れが、そのことを証明したのですから」
「ありがとうございます。確かに大胆でしたが、わたしは泣き崩れているハマさんに、こんな言い方をしました」
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 泣き崩れている浜松望に、孤児院の月丘院長は言った。
「浜松さん。あなたが愛さんに対してできることが、まだ二つ残っていますよ」
 浜松望は涙目の顔を上げた。
「一つは、あなたが母親として名乗り出ることです」
 浜松望は即座にかぶりをふった。
「それはできません」
「愛さんに、わたしから説明しても?」
「だめです。いまさらだめです。絶対にだめです。許して下さい」
「ではもう一つ。これがあなたにできる最後の手かも知れません」
「最後の…」
「ええ、最後の手です。浜松さん、あなたが愛さんの家のお手伝いさんになることです」
「そんな!」
「そんなことはできない─ですか? なぜですか? 共に暮らせる環境にありながら、なぜ親子が親子であることを名乗ることもせず、遥かな対岸から覗き見ているだけなのですか? あなたは罪を犯したと言いましたね。遠い過去の小さな罪のことですよね。それがなければあなたのお子さんは、命を亡くしたかも知れないことなのですよ。そんなちっぽけな罪が、愛さんの命よりも重いとあなたは言うのですか? あなたが手にした二枚の紙幣。その二枚こそが、あなたの大切なお嬢さんの命だったんですよ。わたしはそれを罪とは呼ばない。わたしはあなたが母として、どうどうと名乗り出るべきだと思います。でも、それをできないとあなたは言う。それならば、せめて、ふたり一緒に暮らしたらいい。その算段ならわたしがつけます」
「無理です」
「無理ではありません! これはあなたのためというより、むしろ、あるべき母を奪われている愛さんのためなのです」
「…」
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 ホールの中で月丘ひとりの話が続いた。
「わたしは、半ば強引にその計画をハマさんに押し付けたのです」
 月丘の視線がハマさんから元町に移った。
「つぎは愛さんの説得でした。愛さん、あなた、お手伝いさんなんていらないと言いましたよね」
 元町からの答えはない。月丘は続けた。
「でも、日に日に忙しくなる女優業。留守も多くなって無用心。あれこれ言って、こちらも強引でしたけど、わたしはとうとう里親としての権限で押し切ってしまいました。渋々というか、乗り気でなかった愛さんでしたが、それが一ヶ月もしないうちから、すっかりハマさんを気に入ってくれました。あのときは、わたしもホッとしましたね」
 元町あかりが両手で顔を覆った。 
「一方のハマさんはどうだったのか。お手伝いになってからも、ハマさんの心のうちは判りませんでした。いまも正直言って判っていません。でも、わたしはそれでよかったと思っています」
「わたしも、それでよかったのだと思います」と浜木みゆうが相づちを打った。
「ありがとうございます。あの日もそうでしたが、いまここでのわたしのやり方を、わたしは、これもこれでよいと思っています。いかがですか、愛さん」
 元町あかりの顔から両手が外れた。首が僅かにふられている。ノドの奥から、やっとの言葉が絞り出された。
「院長先生、ありがとうございます」
 月丘恵子が頬を緩めた。
 元町あかり・本名月丘愛は、ハマさんのもとに歩み寄った。それを察してハマさんは、ますます体を小さく丸めた。
 元町あかりがハマさんの前にひざまずいた。両手をおずおず出す。そして、声もなく、静かに、とても静かに、その手で真実の母をわが胸へと抱き込んだ。
 浜松望は成されるまま、丸めた肩を震わせている。
 愛の両手に力が入った。
「お母さん」
 かぼそい声。つぎに大きな声。
「お母さん!」
「愛さん…許して下さい」と、消え入る声でハマさんが言った。
「お母さん! お母さん!」
 元町あかり…いや浜松愛は母をゆすって泣き叫んだ。母もまた、ついに両手で愛に抱きついた。そして叫んだ。
「愛ちゃん! わたしの…愛ちゃん! うおーっははは、うぉーおおお…」
 五十四年の叫びの爆発。浜松望は、心の中でも叫ぶのだった。
(もう死んでもいい! もう死んでもいい! ああ神さま! あなたがこんなにお優しかったなんて、ああ、失神しそうです!)

 築地の大将は一度作り掛けた懐石料理をぶちまけると、新たに、特上の寿司懐石の作り直しに掛っている。ホールの騒ぎに聴き入ってしまい、料理が疎かになってしまったからだ。
「だってよう、眼がかすんじまったら見栄えなんぞ判りゃしねえし、眼からは汗が出たからよう、味加減もへったくれもねえもんだ。なあおい」
「そっす」と、助手の若いもんがウサギのような眼で返事をした。
 作り直しは、定刻の七時には間に合いそうにない。しかし心配はいらない。ホールの方だって、定刻の七時に食べはじめられる状態にはないのだから─。
 庭では虫たちが『秋の夜に捧げるソナタ』を弾きはじめている。ゆっくりでいい。秋の夜長は、いまはじまったばかりなのだ。(おわり)

 
◎お読み下さったのは、あなたお1人かも知れません。でも、お1人であっても、そういう方の存在が、書く身の心の支えでした。ありがとうございました。さて、次回からは児童小説『小さなうそ』です。願わくば、引き続きのご愛顧を─。かねこたかし拝