小説『木馬! そして…』29.

18.あなたが!

 マイクロバスがポルケーノハイウェイを下っている。日帰り湯からの戻り道だ。
「とってもいいお湯。泉質もよかったけど、温泉が渓谷の流れの中というのにはびっくりでしたよね」
「ええ。川そのものが温泉だなんて、さすがは那須。大感激でした」
「源泉かけ流しというのにこだわって来たけれど、かけ流しどころか、流れの中に体を置くわけだから、効能百パーセント。うちの馬にも利用させたら、菊花賞やダービーが取れるかも知れないなあ」
「いやですよ。お馬ちゃんと一緒だなんて」
 バスの中は、いま楽しんで来た温泉の話でにぎやかだ。
「野趣にも溢れていることから、乃木将軍が愛したことでも有名な温泉なんです」
 ハンドルを持ちながら、那須の人でもない山ちゃんが、じぶんの温泉みたいに自慢している。
「あら、すごい。何かしら、ここ」
 ふと車窓に目をやった若島洋子が、白くただれた岩場を見て言った。
殺生石って言うんです。那須には九尾のキツネ伝説というのがありましてね、美女に化けて帝の心を惑わしていた妖怪キツネが、陰陽師に正体をあばかれ退治されたんです。ところがそのキツネ、石に姿を変えて有毒ガスを吹き出してね、近寄る人や動物を殺しはじめたそうですよ。それが殺生石。こわい石なんです。あすでよかったらご案内しますよ。名所は他にもたくさんありますから。この先の右手に、間もなく喰初寺という奇妙な名前のお寺さんが見えて来ますけど、それは、むかし黒羽藩の姫君が食事が採れなくなったことから、願掛けをして救われたという言い伝えに由来したお寺なんですね」
「願掛け」と聞いて、浜木は想い出している。十歳のとき、母の病気が治りますようにと、たびたびお百度を踏んだときのことを。喰初寺ではなかったが、その寺もこの那須にある。
 相変わらず車内の会話は弾んでいる。浜木はふり返った。通路を挟んだ向かいの座席で、ひとりだけ、背すじを伸ばし目を閉じている人がいる。古澤佐代だ。
(おつかれさま)と浜木は心で呟いた。それにしても、この日の佐代の何と美しいことだろう。浜木は、古澤佐代が農場を旅立つ日が来たことを悟った。
「さあ、着きました。あと小一時間もするとディナーです。寿司懐石、いいですよ。元町あかりのためならって、築地の大将が若いものを一人連れて、この日のためにわざわざ乗り込んで来たんですから。やたら気合が入っちゃってますよ」
 山ちゃんがバスの自動ドアを開けた。
「わーっ、きれい!」と、真っ先にバスを降りたレモンが叫んだ。
「ほんと! まるでフェアリー・ランドね」
 つぎつぎにバスを降りたゲストたちも、元町邸の庭に立つモミの木の輝きに目を見張った。温泉に出掛けるときは点いていなかったイルミネーション。青く深く澄んだ無数の光がまたたいている。バンビの形をしたトピアリーにも電飾が点されていた。こちらの青白い輝きも幻想的だ。
「ひらひらと妖精が舞い出ても、不思議ではない世界だわ」
 十月末の午後六時は暗闇の一歩手前。そのあたりの照度の世界が視覚的にはもっとも幻想的に感じるという。バスから下車するその構図自体、銀河鉄道の旅の中での途中下車を連想させた。
 ディナーまでは、それぞれが庭やリビングやホールで過ごすことにしていたのだが、元町あかりが大テーブルに着いたものだから、結局全員その回りに集まってしまった。
「そうだ。ねえレモンちゃん。キッチンルームからハマさんを引っ張り出して来てくれない」
「はーい」
 レモンがキッチンルームに入って行くと、すぐに中から大きな声がした。
「だって、おばちゃんが引っ張り出して来てって言ったんだもん」
「いやですよ。お客さまがいらっしゃるんだから」
「だめだよ。はい、来て来て来て」
 とうとうレモンに腕を取られたハマさんが、片足を引き摺るようにキッチンルームから現れた。
「もう、いつも言っているではありませんか。お客さまのときは、わたしを引っ張り出さないで下さいって」
 ハマさん、ひどく迷惑顔で主人の元町あかりに抗議をした。
「ごめんごめん。でも、ハマさんには悪くない話なのよ」
「えっ、何ですって?」
「ハマさんにとってね、悪くない話だと言ったの。だから、すぐにでも話して上げようと思ってね」
「ごめんなさい。もう一度おっしゃって下さいな」
「ハマさんったら、右の耳がこっちに向くように、こっち側に廻ってちょうだいな」
「ああ、そうでしたね」
 そう言ってハマさんは、元町の左側に廻り込んだ。
「あのね、ハマさんには悪くない話なの」
「どんなことです?」
「さっきお風呂の中でいい話をまとめたのよ。ハマさん、二年も前から辞めたい辞めたいって言っていたじゃない。後継者が見つかるまではダメって引き止めて来たけど、やっと見つかったのよ、その後継者が」
「おや、そうでしたか。いつからですか?」
「来年の四月から」
「まだ先ですねえ」
「だって、仕方がないのよ。後継者はここにいるコモさんなんですもの。コモさん、来春高校を卒業したあと、東京に出て演劇の勉強をしたいんですって。演劇科のある大学に入って役者の道を目指すってわけね。だったら、学校へはわたくしの家から通えばいいってことにね。もちろんお手伝いはして頂きますけどね。コモさんのことだから受験に滑るってことはないと思うけど、万一滑っても、つぎの年に再挑戦するわけだから、どっちにしても来年四月からはハマさんの後継者ってことになるのよ」
「そうでしたか。それはよかったですよ。コモさんなら安心しておヒマを頂けますものね」
「でも、ほんとうにそれでよろしいのですか?」と、コモの母親の幸子がハマさんに訊いた。
「ええ、もちろんですとも。わたしはもともと一年か二年のつもりだったんです。それが何と三十年余。もう、奥さまの足を引っ張るばかりになっちゃってますからね」
「それはないわ。ハマさんさえよかったら、コモさんと二人になってもいいのよ。その方がにぎやかでいいかもね。そうよね。それいいかも。ねえハマさん、そうなさらない? わたくしとしては、そうして欲しいな」
「あなた!」
 突然大きな声がした。みんなはギョッとして声を放った主を見た。浜木みゆうの連れの客、若島洋子だった。
 若島はテーブルから立ち上がると、つかつかとハマさんに歩み寄った。
「あんた、望さんだよね」
「えっ、いえ…」
「望さんですよ。浜松望さん。あなた、左足を引き摺っていたわよ。ほらそこ。その右目の脇にホクロもあるわ。見てよ、ほら。わたしの右目の脇にも同じホクロ。見せ合ったことがあったよね。左耳、不自由だったよね。あなた、函館に居たじゃない」
「…」
「函館のバーサヨリって言ったら思い出す?」
「あっ!」
「そう。その〝あっ!〟ですよ。サヨリですよ」
 ハマさんは、思わずじぶんの顔を両手で隠した。それから数秒…、その手を静かに下ろしてサヨリに深々頭を下げた。
「まさかのところでお会いしました。その節は、ほんとうにご迷惑をお掛けしました。あなたさまの助けがどれほど嬉しいことでありましたか。それなのに、わたしは不義理の限りを尽くしてしまいました。ほんとうに、申しわけございませんでした」
 きょうという日は、何と予期しない出来事ばかりが散りばめられた日なのだろう。みんなは読めない事態の行く末を、かたずを飲んで見守った。キッチンルームのドアが、あちら側からほんの少し押し開けられ、目玉が四つ覗いている。築地の大将たちらしい。
「迷惑なんかいいの。あたしはねえ、あんたもだけど、あんたの赤ちゃんが心配だった。あたしもね、あんたがああなる何年か前に、あんたと同じ道を歩いたんだよ。だからね、だからあんたが消えたとき…。あたしが悪かったよ。あそこで…、そうなんだ。あたしの救いの一手が欠けていたよね」
「とんでもございません。身にあまるご恩を受けました。それなのにわたしは…」
 若島洋子はハマさんの腕を取って軽くゆすった。
「あたしさあ、あんたの置手紙、信じていたの。あんた、書いたよね。いつかあたしの顔をまっすぐ見るって」
「すいません」
「望さん」
「はい」
「訊いてもいい?」
「はい」
「あのときの子は?」
「…」
 ハマさんは、声もなく下を向いてしまった。
「生きているんだろうね」
「…」
「まさかあんた…」
「…」
 月丘恵子が、ゆっくりと立ち上がった。(続)