小説『木馬! そして…』28.

17.母である重さ

「身から出たサビと申しましょうか、わたしには、とてもつらい日々がありました」
 古澤佐代の話は唐突だった。
「このたびの旅行、娘が月丘先生にお伴をして元町さんの別荘へ伺うと言うではありませんか。その目的を詳しくは存じ上げませんでしたが、娘が言うには、木馬の恩人が見つかったとか。わたしはハッとしました。そして、とても奇遇なことだと思いました。すみません。少しばかりお時間を頂けないでしょうか」
 何を言い出すのか判らない戸惑いを感じながらも、元町は笑みを浮かべて「ええ、どうぞ」と答えた。
「ありがとうございます」
 古澤は、誰に向かうともなく、焦点の定まり切らない目で話し出した。
「春のころ、わたしのいる農場に娘がやって来て、リボンのついた木馬に憶えはないかと訊きました。わたしは知らないと答えました。でも、ほんとうは知っていたのです。わたしもその番組を見ていたのですから」
 娘の大平美佐江が(よもや!)の顔で母を見た。
「こうなると、奇遇というより運命でしょうね。祠に置き去りにされた赤ちゃんを迎えたのが月丘先生。その先生が現在運営されている施設にお世話になっているのがわたしの娘。そうしたご縁で、娘はいま、元町さんと親しくして頂いている。その元町さんの別荘が那須。その那須に、娘が月丘先生と来ることに…。どれもこれも運命。わたしは、つくづくそう思いました。娘が月丘先生の施設で働くようになったのは、そもそもそのことからして、娘の意思というよりも、神さまがお決めになった運命だったように思います」
 この老女が何を言おうとしているのか、ここまで来て、まだ大半が予測できないでいる。(この人が何かを言い出す)─漠然とだが、そうした予感めいたものを持っていたのは山ちゃんだけだ。山ちゃんは、老女に会ったときから目の動きの硬さを感じていたし、少し前からは、香川幸子を見る老女の目に特別なものを感じ取っていた。
 宙に浮いていた古澤佐代の目が元町あかりに当てられた。
「幸せを運ぶ木馬を、赤ちゃんである元町さんに差し上げた人、わたし、知っております」
「えっ!」
 元町あかりがその身を反らせた。たったいま話していた「残された課題」が、こんな形で飛び出そうとは! 
「それって…」
 元町あかりの声がかすれる。
 古澤佐代の右手がゆっくりと上がり、ひとりの人物へと降りて行く。
「この人です」
「大平さん…」と元町あかり。その声は聴き取れないほど小さかった。
「この人です」と、名指しされた娘の大平美佐江の驚きぶりこそ、いかばかりであったろう。らんらんとした目で母を見続けている。周囲の目は一様に、佐代、美佐江、元町を追い廻した。
 古澤佐代が誰にともなく頭を下げてから、断りを入れた。
「この話をするにあたっては、その前にしておかなくてはならないことがございます」
 古澤佐代は、席を離れて歩き出した。長円形のテーブルに添って半周。香川幸子の席の前で歩みを止めた。
 着席している幸子が、首を廻して佐代を見上げた。その幸子に、佐代が深々と頭を下げた。
「香川さん」
「はい」
「香川幸子さん、ごめんなさい」
「どういうことですか?」と問う幸子を前に、古澤佐代は、いきなりスリッパを脱ぎ揃えて土下座した。ひたいを床にこすりつける。
「何をなさるんです!」
 幸子はイスから飛び上がり、まさかの顔で古澤を見た。
「こうすることが神さまの思し召し。どうぞお許し下さいませ。あなたの木馬は盗まれたのです。あなたの木馬を盗んだのは、このわたしです」
「何をおっしゃるんです。お願いです。お立ちになって下さい。どうぞ、お願いですから」
 幸子はしゃがんで佐代の腕を取ると、やっとの思いで立ち上がらせた。
「さっちゃん、わたしですよ!」
「えっ!」
「おそうじのおばちゃんですよ!」
「あっ、あのときの…」
「ええ、あのときの。わたしがあなたの大切な木馬を盗ったんです。あなたの木馬を盗ったあのときのおばちゃんです」
「だめだめ、盗ったなんて言わないで下さい。おばちゃん! おばちゃんは、わたしにとって大切な人。大惨事という魔殿に封じ込められていたわたしを、あの手この手で助け出してくださったのは、おばちゃん、あなたではありませんか」
「ごめんなさい! 許して下さい」
 古澤佐代は、娘の美佐江を救うために幸せを運ぶ木馬を盗った。そうすることで背負うことになる心の重荷は、もとより覚悟の上だった。美佐江の人生を取り戻すことができるなら…。その一念で木馬を盗った。木馬は、そんな佐代の一念を聞き届けてくれた。再び奇跡が起こったのだ。
 盗ったことへの後悔はなかった。そうなることを願って、そうなったのだ。しかし、罪悪感はトゲとして残った。娘を嫁がせてから浜木みゆうの農場に駆け込んだのは、そのトゲによる傷口を少しなりとも癒したかったためである。以来、洗心五年また五年と重ね続けている人生。
 古澤佐代は幸子の前で、心のすべてをさらけ出した。
「おばちゃん。もう言わないで。おばちゃんは、わたしが木馬のことを想う心より、千倍も万倍も苦しい思いをなさって来たではありませんか。おばちゃんがたった一つの木馬のことで。ああ、もっと早く会えればよかった。早く会えたら、こんなにおばちゃんを苦しめなくてすんだものを」
「もったいないお言葉ですよ」
 そんな母をかばうように、美佐江は母に歩み寄ると、母のその背に手を廻し、幸子に深く頭を下げた。
 元町あかりは両手を胸に押しつけている。しゃべり出したいじぶんの気持ちを、必死で押さえ込んでいる。そんな元町を、マネージャーの山下仙太郎が見つめている。山ちゃんには、元町あかりの今の気持ちがよく判っていた。
(わたしが代わって訊くしかないなあ)
 山ちゃんも立ち上がり、佐代の前に進み出た。
「あの〜う」
 佐代が涙目の顔を上げた。
「一つだけ、一つだけお尋ねしてもいいでしょうか?」
「はい」と佐代が頭を下げた。 
「その木馬が、どうして元町のところに?」
 これこそ、元町あかりが胸の中に押さえ込んでいた質問。これまでに最も知りたかったこと。元町の顔が紅潮している。
 佐代は、山ちゃんではなく、元町に向かって話しはじめた。
「たまたまのことでした。期日も憶えております。主人の一周忌を迎えるちょうど一週間前のことでしたので。昭和三十年四月二十九日です。その日、美佐江とわたしは函館山に登りました。その帰りのことです。通りかかった祠の前で、かすかに泣く赤ちゃんの声。それに美佐江が気づいたのです」
「それがわたくしだったのですね」
「はい」
「病院に付き添っていただいたのも、古澤さんと美佐江さんだったのですね」
「はい」
「そのとき、あなたは幸せを運ぶ木馬をお持ちだった」
「はい。その日の目的は函館山へ行くことではありませんでした。目的は七重浜にある岩見丸沈没事故慰霊碑にお参りすることでした。すでにお話したように、当時四歳の美佐江も、この直前まで幸子さんと同じでした。意識を失くして植物状態だったのです。だからこの手で幸子さんの大切な木馬を…わたし、盗りました。美佐江はそのお陰で意識を戻すことができたのです。笑う方もおられるでしょうけど、ほんとうに木馬のお陰だとわたしは信じております。目的を果たした以上、木馬は幸子さんにお返ししなくてはなりません。わたしと美佐江は幸子さんのいる病院を訪ねました。でも、すでに幸子さんは退院されていて、行く先も判明しませんでした。いえ、うすうすながら、那須のおばさんのところという情報は得ていたのですが、この情報に向かっての一歩を踏み出す勇気がありませんでした。そこで、せめて気持ちだけでもお伝えをと、あの日、慰霊碑に眠る幸子さんのご両親を訪ねたのです。木馬を持っていたのはそのためでした」
「それを、香川さんではなくわたくしに…」
「はい。元町さんを病院に運び込んだとき、美佐江が言ったんです。『赤ちゃん、この木馬があれば元気になれるよね』って。わたしも、そんな気がしました。それで赤ちゃんの命が助かるのなら、幸子さんもわたしの罪を少しは許して下さるかと…」
 元町が静かに大きく頷いた。それから大平美佐江に歩み寄ると、その手を取った。
「わたくしの恩人。知りたかったわたくしの恩人は、ずっとわたくしのそばにいたのですね。大平さん、あなたがわたくしの恩人だったのですね!」
「いいえ」
 大平美佐江はかぶりをふった。
「ごめんなさい。わたしには、その記憶がありません。わたしではありません。それをやったのは母でしょう。いまの母の話、わたしもはじめて聴きました。母がその件で、こんなに苦しんでいたことも、いまはじめて知りました」
 美佐江は一度佐代に目をやってから、思い出したように話しはじめた。
「母は、わたしが月丘先生のお伴をして那須にある元町さんの別荘に行くと知ったとき、『那須はちょうど紅葉の季節。わたしも行きたいわ』と言ったんです。これまで旅行などほとんどしなかった母の言葉でしたから、わたしは少し不思議に思いました。そのとき、たまたま同じゲストハウスで若島さんと面会中のみゆ先生が、『那須ですって? 懐かしいわねえ。わたし、その那須の出身なのよ』とおっしゃったんです。すると若島さんが、『だったら、この機会に〝那須高原ババ三人旅〟でもしない?』って。母は若島さんともよく知り合っていたんですけど、それにしても即座に『行きましょう』って。わたし、びっくりしました。きっと母は、『木馬の恩人も来るらしい』と言うわたしの言葉を聞いたときから、那須行きを密かに決意していたのだと思います。もっと言えば、那須で、こうなる機会を狙っていたのだと思います。そのことをいま強く感じました」
 佐代はこうべをたれたまま、固まったように立ち尽くしている。 
「あっ、それと…」と、美佐江が何かに気づいたように付け足した。
「みゆ先生の農場では、母は〝リボンさん〟と呼ばれています。農場ではみゆ先生の発案で、みんな自己申告の愛称で呼び合っているんです。母が申告した名がリボンだったわけですね。これまでわたしは、母がじぶんの愛称をなぜその名にしたのか、深く考えたことがありませんでした。でも、それについてもいま判りました。母のザンゲだったんですね。香川さん、ごめんなさい。母の行動は、すべてがわたしのためだったんです」
「もう、それはおっしゃらないで。わたし、一度だっておばちゃんのことを悪く思ったことなどないのですから」
 香川幸子はそう言うと、古沢佐代のシワだらけの手を取った。
「おばちゃん、その節はほんとうにお世話になりました。あのとき作っていただいたお手玉、いまも大切に持っているんですよ」
 思わぬ展開の連続に、この一件と直接関係のない若島洋子や星川一馬、坂本幸恵たちも、いつからかハンカチを手にしていた。
「何て素晴らしいことでしょう。誰も素晴らしい。月丘愛を包んでいたナゾは、その一つひとつが愛だったんですよ。愛さん、あなたは孤児でありながら、決して孤児ではなかったのよね」
 月丘恵子が赤い目をして元町あかりに頬笑みかけた。
「はい。幸せです。ナゾの正体が、こんなに素晴らしい糸で織りなされていたなんて。よかった。ほんとうに知ってよかった」 
 ヒュ〜ッと那須の山風が吹いた。開け放っていた窓から、ヒラヒラヒラと黄色い葉っぱが舞い降りて、木馬の横にヒラリと止まった。
 みんなの目をひくチャッカリ落葉。何となくみんな鼻をぐじゅぐじゅさせながら、チャッカリ落葉を見つめている。(続)