小説『木馬! そして…』23.

23.

 幸子は確信の目で頷くと、その目を木馬から元町あかりに移した。
「確かに、これは当時の木馬に間違いないと思います」
「よかった。木馬の持ち主さまが見つかって。わたくしが、いまこうしていられるのは、この木馬のお陰です。言い換えますと、香川さんのお陰です。わたくしの命の恩人です。香川さんの木馬が、わたくしの命を守り通してくれたのですから。木馬の持ち主さまには直接お会いしてお返ししたい。それがわたくしの願いでした」
 ここで元町は立ち上がった。
「やっとお会いできました。お返しいたします。その節は、ほんとうにありがとうございした」
 元町が深々頭を下げると、幸子も立ち上がって「こちらこそ、わざわざお運び頂き、ありがとうございます」と言ってから、「ただし…」と、幸子は言葉を繋いだ。
「この木馬は、確かにわたしの両親がわたしに買ってくれたものだと思います。でも、元町さんがお礼を言うのは、残念ながら、わたしにではありませんよ」
「はあ?」
「元町さんが恩人と言うのなら、それはわたしではないということです」
「…とおっしゃいますと?」
「どうぞ、お掛けになって」
 二人は再び腰を下ろした。
「番組の中で言っておられましたよね。元町さんが祠の前で保護されたとき、病院まで付き添って下さった人がおられたと」
「はい。その通りです」
「その方が、この木馬を置いていかれたと…」
「そうです。昭和三十年四月のことです」
 この言葉を受けて、香川幸子は静かに首を振った。
「昭和三十年の四月には、この木馬は、すでにわたしの手元にはありませんでした」
「はあ?」
「それより以前に、入院していた病院で失くしてしまったんです。ですから、この木馬が元町さんの手に渡るまでに、あと一人か、あるいはもっと複数の人の手を経ていると思います」
「失くされたというのは?」
「ええ、わたしのベッドから消えたんです。誤って捨てられたか、間違って持ち去られたかは分かりません。とにかく、ある日突然消えたんです」
「そうでしたか」
 元町あかりの顔が少し曇った。恩人探しが振り出しに戻ってしまったのだ。
 しかし彼女は、すぐに笑みを戻して言った。
「そのいきさつはどうであれ、この木馬が香川さんのものである。そのことには変わりがありませんよね」
「多分」
「この木馬を香川さんのご両親が購入されたのは、北海道の別海町の森の中の喫茶店ですよね」
「えっ! そうですけど、どうして元町さんがそれをご存知なんですか?」
「木馬のお腹に彫られた字の件で、いくつもの返信を頂いたことは、いま申し上げた通りです。信という字や、恵む、美、瑞穂の瑞…。字はそれぞれに違いましたが、共通していることがあったのです。その入手先が北海道の別海町にある小さな喫茶店だったということです。そして、お腹に彫られた文字は、どれも買った方のお名前の一字、もしくはプレゼントを受ける方のお名前の一字でした。この木馬に彫られた字が、香川さんのお名前の一字であったようにね」
「そうでしたか。テレビの番組って、すごいですね」
「ほんとですね。わたくしも驚きました。とにかくこれは香川さんのものですから、お返ししなくてはなりません。でも、あらためて、一つお願いがございます」
「何でしょう?」
「お返しに伺った席でこんなことを申し上げるのは失礼なのですが、あとしばらく、木馬をお貸し願えませんか?」
「えっ? ええ、それは構いませんけど…」
「いまはじめて知りました。恩人がもうお一人いらっしゃるということを。ええ、病院まで付き添って下さった方のことです。その方にもお会いして、お礼を申し上げたいのです。木馬は、その方をお探しするための手掛りになるのではと思ったものですから」
「ああ、そういうことでしたか。どうぞ、どうぞ。その方が見つかるまで、何年でもお持ちになって下さい」
「ありがとうございます」
 レモンが、じぶんで入れたレモンバームティーを運んで来た。
「はい、お茶です。それと、こっちはコモおねえちゃんが今朝焼いたキャラウェイのスコーンです」
「あら、すてき」
「それと、もう一つ。マリーおねえちゃんが、お昼にはおいしいパスタを作りますって」
「それはいいわねえ。わたしが言うのもなんですが、マリーのパスタはほんとうにおいしいですよ。ハーブの使い方もほどよくて。ぜひ、召し上がって下さい」
「いえいえ、お構いなく。きょうは土曜日ですもの、お店の方がお忙しいのと違いますか?」
「土曜日だからいいんです。レモンもコモも学校がありませんから。それに、思い出話はまだしていませんよ。あのころのこと、木馬のこと。ランチをご一緒しながら、ゆっくりお話がしたいですもの」
「分かりました。マリーさんご自慢のハーブ・パスタ、じつはそれ、わたくし大好きなんです。ありがたくごちそうにならせていただきます」
「よかった。マリーが喜びます。…あっ、そうだわ。ねえ元町さん、せっかくここにいらしていただいたんですから、お話はランチのときにまとめることにして、お昼までの時間、よろしかったらハーブ石鹸作りでも体験なさいません? ハーブ石鹸作りはレモンが得意なんです。この子が上手にお教えしますけど? ねえ、レモンさん」
「レモンさんが先生か。それは嬉しいな。ハーブ石鹸、一度作ってみたいと思っていたところなの。レモン先生にお願いしようかしら」
「うん! 行こう」
 レモンはにっこり笑って元町あかりの手を取った。
「えっ、いますぐ? せっかく入れて頂いたレモンバームティー、まだ口もつけていませんのよ」
「持って行けばいいよ。石鹸を作りながらだって飲めるんだから」
 レモンは元町の手をヨイショと引いて、彼女をイスから立ち上がらせた。
「あら、強引ね」と香川幸子が苦笑まじりに言ったとき、突然ウグイスが鳴き出した。
 ホーホケキョ ケキョケキョケキョ…。
「わぁ〜っ、いい声。どこかしら?」
 元町あかりが近くの木立ちを見まわした。
「ほら、あそこ。ウシコロシの木のてっぺん」
 レモンが新緑の木を指差している。
「ウシコロシ? それはまたすごい名ですねえ」
カマツカとも言うんですけど、材が堅くて牛の鼻輪にしたことからこの名があるんですって」と、香川幸子が解説した。
「この時期、あの木のてっぺんに来てよく鳴くんですよ。何かを求めているように。恋の季節でしょうかねえ」
「この空気、この景色。そういう季節ですものね」
 キョキョ キョキョキョキョ!
「あらっ? あの声は?」
ホトトギスです。托卵の…」
 托卵とは、じぶんでは巣を作らないで、よその鳥の巣に卵を産みつける習性のこと。ホトトギスの場合、主にウグイスの巣に産みつけて、じぶんの子を育てさせる。幸子が話を途中でやめたのは、育児を放棄された元町あかりにはそぐわない話だと感じたからだ。
「気になさらないで」
 元町が、子どもっぽく頬を緩めた。托卵の習性を知っていたのだ。(続)