小説『木馬! そして…』22.

14.恩人はどこに…

 平成二十一年五月二十三日。
「世間は広いようで狭いと申しますけれど、こんなに近くにいらしたなんて。ここが北海道ならいざ知らず、半分はユメ気分で参りました」
「はい。ほんとうに驚きました。歩いても三十分と掛らないところに、元町さんの別荘があったなんて。有名人の別荘なら近くにいくつか知っていますが、あの別荘が元町さんのものだったとは、わたしばかりか家族のものも初耳でしたよ」
「いえ、隠していたわけではないのですが、那須はわたくしの安息の場所なんです。ですからこれまで、ほんとに近しい人しかお呼びしていなかったものですから」
「秘密の館だったんですね」
「小さいころ、じぶんが独占できる場所を作りませんでした? 裏山の木の上とか、放置された土管の中とか」
「ああ、作りました。じぶんだけのスペースとしての秘密基地」
「そう、その秘密基地なんです。わたくしにとっての那須の家は」
 ここは栃木県の那須高原。ハーブ園『ハーブランド那須』にやって来た元町あかりは、経営者香川幸子の出迎えを受けた。
「きょうはよいお天気なので…」と、幸子は元町あかりをデッキのガーデンテーブルに案内した。
「あら、すてき。この角度からの那須連山」
「ありがとうございます。ここ、叔父叔母から引きついだハーブ園なんですけど、わたしもこの眺めが気に入っているんです。さあ、どうぞお掛けになって」
「では、失礼して」
 二人が着席すると、いかにもハーブ園にフィットする清々しい女性が、手におしぼりを持って現れた。
 その女性に幸子が言った。
「マリーさん、ご挨拶の前にみんなを呼んでいらっしゃい。お店には、いまお客さまがいらっしゃらないようだから、一家まとめてご紹介させていただくわ」
「はい」と答えたマリーは、すぐにコモとレモンを連れて来た。
「元町さん、わが家はこれで全員です。ご紹介しますね。こちらが長女のマリーです。二十七歳。独身です」
「お母さん、トシまで言わなくても…」
「いいじゃない。まだ若い身空なんですから。そのお隣が次女のコモ。十七歳の高校三年生。そちらは三女のレモンです。レモンはまだ十一才の六年生です」
「よろしくお願いします!」
「わぁー、元気。こちらこそ、よろしくお願いいたします。元町あかりです。ところで皆さんのお名前、すてき。どなたが命名されたんですか?」
「母です」とマリーが幸子を振り返った。
「わたしたち、みんなハーブにされちゃったんです」と、次女のコモが笑って言った。
「ハーブにされた?」
「ええ。わたしのコモはコモンゼージのコモなんです。姉のマリーはローズマリーのマリー。妹のレモンは、酸っぱいレモンではなくて、レモンバームのレモンなんですって」
「まあ、どうりでみなさん、味も香りも鮮度も、すべてよさそう」
「戸籍上の名前は別なんですけど。わたしたち、全員養子なんです」と言ったのは長女のマリーだ。
「三人ともじつの親に育児放棄された身なんです。でも、それでよかったと思っています。真実の母に巡り合ったって感じなんです」
「やだ恥ずかしい。そんな言われ方」と、幸子が少女のように身をよじった。
「だって、ほんとうなんですもの。ねえ、コモ」
「ええ、恥ずかしがることじゃないわ」
「ほんとうにわたしたち、母には感謝しているんです。レモンはまだときどき涙ぐむこともありますけど、わたしやコモも最初はそうでしたから、少しも心配はしていませんの」
 マリーの説明に、レモンが「もう泣いていないよ」と口をとがらせた。
 コモが言った。
「母は元町さんを尊敬しているんですよ。ユニセフの親善大使などで活動をされているからです。その母を、いま姉が言ったように、わたしたちも尊敬しています。もちろん、元町さんの大ファンでもありますけどね」
「うれしいわ。すばらしいお嬢さんたちですね。やっぱり、香川さんのお人柄ということでしょうね」
「恵まれただけですよ。事情はともかく、この子たち、根がいい子だったんですよ。…あらいやだ。うちうちの宣伝合戦みたいじゃない。はい、ご紹介はここまで。元町さんとわたしは少しお話がありますから、あなたたちはお店をよろしく。そうね。レモンさんには、おいしいお茶を入れてもらおうかな。元町さん、お茶は何がよろしいですか?」
「レモンさんに入れていただくなら、もちろんレモンバームですよね」
「はい、分かりました。いま入れて来ます」
 三人の娘たちが下がって行くと、うしろ姿を目で追いながら元町が言った。
「ほんとにいいお嬢さんたち。それぞれにご事情がお有りだと伺って、なおびっくりです。それにしましても、ご養子三人。何か強い信念を感じたのですが…」
「信念というほどのものはありません。ただ、わたし、十歳のときにある事故で両親を亡くし、このハーブ園をやっていた叔父叔母夫婦に引き取られたんです。叔母たちは子どもが居なかったこともあったのでしょうけれども、とてもよくしてくれました。じつのわが子以上と言ってもいいくらいです。あの子たちを育てるのは、間接的な叔父叔母への恩返しなんです」
「そうだったんですか。わたくしも、良い里親に育てられたと感謝しています。人は人が育てるものですね」
「はい。子どもに良い悪いはありません。良い環境で包んであげれば、みんな良い子に育つと思っています。元町さんのようにね」
「あらあら、そう来ましたか。ありがとうございます。そこでと言ったらナンですが、わたくしが良い里親に巡り会えたのも、木馬の恩人が居たからでして…」
 ここで元町は、バックから一通の手紙を取り出した。
「本題に入らせていただいてよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
「ありがとうございます。では、まず、きょう訪問させていただいた理由からお話させていただきます」
「はい」
「あの番組では全国から、たくさんのお便りをいただきました。わたくしの母に関しての情報も寄せていただきましたが、一番多かったのは木馬に関するものでした。それは、ここには持って来られないほどたくさんだったんです」
「その中の一通がわたしのですね」
「ええ、そうです。これがその一通です。ありがとうございました。読ませていただいた途端(これだ!)と思いました」
「お役に立てたなら何よりです」
「とてもありがたいものでした。他にもたくさんの情報をいただきましてね。そうした情報を寄せていただいた皆さまに、わたくしの方からも一通出させていただきました。木馬には文字が一字彫られております。その文字が何という字か憶えておられますか、といった内容のものでした」
「はい。わたしも頂きました」
「それに対する返信は、それほど多くはありませんでした。でも、それぞれが誠意あるものでした。信じるの〝信〟という字、恵むという字、美しいという字、瑞穂の国の〝瑞〟という字、智恵子抄の〝智〟、友だちの〝友〟、ほかにもいくつかありました。でも、わたくしが持つ木馬に彫られている字は、そのどれでもありませんでした。言い当てたのはただ一通。香川さん、あなたさまからいただいたこの一通だけだったんです」
 元町あかりは、ここで木馬を取り出した。
「これ、香川さんのですよね」
 幸子が木馬を受け取って、愛おしい目でそれを見た。お腹を見ると、思い出深い〝幸〟の文字。右肩上がりの字の特徴にも憶えがあった。(続)