小説『木馬! そして…』21.

13.わたしの子じゃない!

 望はくたびれ果てていた。アパートを出て最初の二日は木賃宿に泊まったが、そこでお金が底をついた。
 この二日間、望は託児所、保育所、介護ホーム…と、乏しい知識の中から思いついた施設のすべてを、片っ端から訪ねて廻った。わが子を預けて働く機会を得ようとしたのだ。
 しかし、ことごとく断わられた。住所もなく、出生届も出されていないためだった。そんな当然のことも望は理解していなかった。
「住民票はどこにあるの? えっ、盛岡? そこがお住まいなの? だったらそこに戻って、そこで出生届を出して、ねっ、何をやるにもそこからですよ。大丈夫? ねえ、あなた。分かってるの?」
 どこに行っても、欲しい返事はもらえない。まともに取り合ってももらえない。いや、まともでないのが望の方なのに、そのこと自体を望自身が分かっていない。ずるずると、時間ばかりが過ぎていった。
 三日目からは宿なしとなった。雨露しのげる軒下探し。
 そんな野宿もきょうで四日目。宿賃には足りないまでも、わずかなお金は残っていたが、それも、もうない。
「ごめんね、愛ちゃん。今夜もここになっちゃったね。寒いよね」
 この二日間、望は水以外のものを口にしていなかった。養分の抜けた体に、寒さが一層冷たく迫る。
 無人のお寺のお堂の中で、望はわが子の口に乳首を含ませた。
「どうしたの愛ちゃん。ほらほら、オッパイだよ」
 むずかっていた赤ん坊が、突然激しく泣き出した。
「どうした、どうした。はいはいはい」
 オッパイをしゃぶらせても、イヤイヤをして出してしまう。そして激しく泣くばかり。こんなことは一度もなかった。
 望はハッとした。オッパイをしぼってみる。
(出ない!)
「オッパイが…オッパイが…」
 望の目から、絶望のしずくがポタポタ落ちた。
 ミルクが欲しい。温かいミルクが欲しい。暖かい寝床が欲しい。人並み以上のことはいらない。この子に少しの温もりが欲しい。この子に…。この子に…。
 望は泣く子を抱いてお堂を出た。ふらふらと歩く十八歳の若い母。
 望は立ち止まった。目の前に大きな店がある。日用雑貨の店だったが、食品も売られていた。棚には粉ミルクが積まれている。
(わたし、お金がない)
 それを分かっていながら、望は見えない魔物の招きに乗って、フラリと店の中に入った。
 目に映るのはミルクの缶。だがその端に、チラリと別の何かが映った。そこは勘定場。現金箱が置かれていて、なぜかフタが開いていた。
(お金!)
 ここからは地獄絵を見るようだった。血走った目で左右を見る。人の目がない。にじり寄って手を伸ばす。お札を掴む。
「あっ、どろぼーっ!」
 店の奥から丸まげのおばさんが飛び出した。
 望は走り出していた。道路に飛び出て夢中で走った。赤ちゃんが泣く。泣いても走った。角を曲がり、また曲がり、息絶え絶えに走り続けた。
 どれくらい走ったろう。女の声は、もう聞こえない。ふり返ったが、追って来る人もいない。ほっと一息つくと、欠食していた体がヨロヨロとよろめいた。
 公園があった。公園内にはトイレもあった。望は人目のないのを確かめてからトイレに入った。カチッと中からカギをかけ、握っていた右手をそっと開いた。汗まみれになったグチャグチャの千円札が二枚あった。
(わたし、お金を盗んだ…)
 不良時代にもなかったこと。望は、しばらくそこで泣いた。
 鼻をすすり、目がしらを指で払い、意思を固めるように目を見開いた。じぶんでやってしまったことを、いつまで泣いてもはじまらない。望はトイレを出ると、盗んだ店とは反対方向の商店街へと向かった。

 汚れたお金でミルクを買った。公園の水飲み場で哺乳ビンに水を詰めた。
 お寺のお堂に戻ると、水の入った哺乳ビンにミルクを入れた。それをよく振り、じぶんのお腹の中に入れる。服の上からビンを肌に押しつける。お腹が冷たい。冷たいうちはダメ。途中で取り出し、またよく振って、お腹の中に戻す。
 冷たかった哺乳ビンが少しばかり温もった。完全とは言えなかったが、もう待てない。「ごめん、ごめん。はい、できましたよ」と、望は泣き続けていたわが子に飲ませた。
 哺乳ビンの中を小さな泡が、ぶじゅぶじゅぶじゅ…と上って行く。すべてを忘れさせるような満足感が望を包んだ。束の間の満足感ではあるのだが…。

 いま愛は眠っている。この子がお腹を満たしているのは、いまだけのこと。このミルクが無くなったら、また絶望の際に立つ。そうなったらまた盗む? いやいや、同じことはもうできない。
(さあ、どうする?)
 サイフの中味が分かっているのに、望はサイフを開けて見た。引っくり返すと小銭がパラパラ悲しく落ちた。途端に甦る絶望感。
「何もかも終わりだよね」と呟いた。
 サイフの中に何かが一つ残っている。(何だろう?)と取り出してみた。
「皮肉」と望は呟いた。中学のころ、親友だった百合子と交換し合った神社のお守りだった。
「大人になったら、そのご利益を語り合おうね」
 そう誓い合った空しい記憶。
「何がご利益だか」
(大体が、わたしを守っているのは、このお守りなの? それとも百合子が持っている、もともとはわたしのお守りなの? 百合子が幸せだとしたら、わたしの不幸は百合子のもの?)
「バカらしい」
 望はお守りを放り出した。
(そんなことより、これからどうしよう?)
 隣で眠る愛児を見た。眠る愛児が、そのとき僅かに顔をしかめた。
 瞬間的に、望の脳裏にとてもいやな言葉が浮かんだ。
(この子は犯罪者の子ども!)
 途端に、血の気が引くのを望は感じた。気づけば、じぶんの指がふるえている。どこのどいつか、いやなやつらの声が聞こえた。
  おまえ、どろぼうの子だろう!
  女のくせして、汚ないやつめ!
  あっちへ行けよ!
(愛ちゃんが泣いている! あたしのせいで泣かされている!)
「やだよーっ」と望は声に出して叫んだ。耳を押さえてかぶりを振ったが、いやなやつらの声は続いた。
  おまえも、どろぼうするんだろう。
  神社の賽銭箱のお金が盗まれたんだってさ。
  やったの、おまえだろう?
「やだよ、どろぼうじゃないよ! 愛ちゃんはどろぼうなんかじゃないよ! そうだよ。愛ちゃんは、どろぼうの子なんかじゃないんだよ。愛ちゃんは…愛ちゃんはわたしの子じゃない! わたしの子にしちゃいけないんだよ!」
 望は手帳を取り出すと、開いた一頁を破り取った。そして、破り取った一枚の紙にエンピツで走り書きをした。
 書き終わると、紙を小さくたたんで、さっき投げたお守り袋の中に入れた。
「愛ちゃん…ごめんね」
 身支度をすませると、望は愛児を抱いて立ち上がった。お堂の扉を押して外に出る。
(さあ、どっちへ?)
 望は、人通りの少ない道を選ぶように歩きはじめた。
『通学路』と書かれた掲示が目に止まった。
(これだ!)
 いまは人の気配のない道だけど、通学路なら、時間が来ればぞろぞろ通る。
(この道のどこかに…)
 望は、通学路をキョロキョロ進んだ。
 道路からほんの少し引っ込んだところに、小さな祠があった。
(あそこだ!)
 前後に人影のないのを確かめると、望は祠の前に、おくるみにくるんだわが子を置いた。別れを惜しんでいる余裕はない。(堪忍して!)と心で叫び、望はそこから走って消えた。
 それにしても、望は不幸という字に取りつかれていた。その日四月二十八日は、この通学路を利用する小学校が創立記念日で休みだったこと。さらに不幸だったのは、翌日の二十九日も天皇誕生日で学校が休みだったこと。
 まさかのことを知らない望は、その三十分後、近くの交番に自首していた。(続)