小説『木馬! そして…』20.

12.いつかきっと…

 オッパイを飲み終わった赤ん坊が望の脇で、天使の顔で眠っている。その安らかな顔を、望は愛おしく見つめている。
(じぶんはこの子を、どうしたいと思ったのだろう?)
 望が妊娠に気づいたのは、五ヶ月を過ぎてからだった。間抜けと言えば間抜けな話だ。そこまで気づかなかったということは、それだけ生活が乱れていたということ。
 気づいてから堕そうとも、産もうとも思わなかった。考えを持っていなかった…と言うか、どうしていいか分からなかったと言った方が当たっている。カレンダーの過ぎゆく日々に、意味もなく×××…と、×印を書き入れていた。
 家を出るときも、連絡船に乗ってからも、サヨリの店に転がり込んでからも、まだ、じぶんのお腹というものについて、望は、どうしていいか判っていないままだった。お腹の子に愛情が持てないというのではない。その逆でもない。お腹にあるものが「物体」とまでは言わないけれど、「人格」だという明確な思いには至っていなかった。
 だが、いまは違う。じぶんと血を分けた愛しの天使。産声を耳にし、実際にその新しい命を胸に抱き寄せたそのときから、この世で一番愛しいのは、じぶんではなく、この子。
「あなたとのまさかの出会い。でも、この出会いこそ、生きて来た人生の中で一番目に嬉しいこと」─これが望のいまの気持ち。この言葉にゆるぎはなかった。そのことで、望がこの世で一番感謝したい人がいる。その人は、出会ったばかりの人。サヨリ
サヨリさんに出会わなかったら、この子とも出会わなかったような気がする。とても深く感謝している)
 望は思った。
(…でも…だから)
 望は畳の目を見つめたまま考えた。
(あの人はよその人。親にも見捨てられたわたしなんかが、よその人に、こんなに甘えていいのだろうか? こんなに迷惑を掛けたままでいいのだろうか?)
「ダメだよ」と、望は言葉に出してかぶりを振った。
「だって、お店に出ることもできない。アパート代を払うこともできない。何一つ、恩返しができないんだもの」
 望は私物をまとめはじめた。おむつに、肌着に、おくるみに、哺乳ビンに…。どれも『ニッカバーサヨリ』の二階にいるときから、サヨリの目を盗んで買い揃えたものである。もう少し買っておきたいものもあったが、先立つものに赤信号が点ってしまった。
 それでも、大きめのショルダーバックだけは古着店から買っておいた。こうなることを無意識のうちに予測したから? いや。恐らく本能といったものだろう。家を出るとき持ち出した小ぶりのバッグは捨てることにして、必要な持ち物すべてを大きめの中古バッグ一つに詰め込んだ。
「愛ちゃん」と、小さな声でわが子を呼んだ。顔を近づけ、おもちのようなほっぺたを指でチョンチョンと突っついて、「かわいいね」と、ささやくよりも小さく言った。
「愛ちゃん」とは、そうと決めたわけでもないのに、今朝あたりから自然と口を突いて出ている名前だ。役所に届け出たわけではない。ということは、名前? 愛称? よく分からないけど、そう呼ぶことに望は違和感を持たなかった。
「愛ちゃん。あした、お母さんとここを出て行こうね。愛ちゃんには、お母さん、いっぱい幸せになってもらいたいの。だからお母さん頑張るよ。頑張るから、あした、ここから出て行こうね」
「お母さん」という言葉も自然に出た。抵抗感も気恥しさも、何一つ感じなかった。大気の中の無意識の呼吸のようなものだった。
 窓がカタカタと鳴った。日暮れとともに吹き出した風が、冬の名残りを伝えているのだ。
(あしたからどうなるのだろう?)
 じぶんのことなのに、じぶんでも判らない。ただし、どんな困難が待ち受けていようとも、生き抜かなければならないのだ。
(だって、独りじゃないのだもの。ここからの人生は、愛ちゃんの人生でもあるのだもの)
 望は、先の読めない中で、読めないなりの決意を固めて電気を消した。
(あしたから。何事もあしたから…)

 朝八時。
 作りたての朝食を手に「おはよう」と、ドアを開けるとクツがない。たたまれている一組の布団。ちゃぶ台の上には一枚の半紙。そこに何かが綴られている。
「あいつ!」と叫んだサヨリは、クツを脱ぎ捨て部屋に飛び込むと、半紙をつかみ取って目を走らせた。
「あのやろうめ」
 心の底から湧き出る怒り。サヨリは読み終わった半紙を荒々しく丸めると、ちゃぶ台めがけて叩きつけた。ポンポ〜ンと飛ぶ紙ボール。窓に走って外を睨む。そしてサヨリは、「ばかやろーっ」と腹の底から怒鳴りあげた。
 サヨリの怒りが向く先は、望の行動そのものだが、紙に綴った彼女の考えの浅さにも、ふつふつ湧き出す怒りがあった。
『ごめんなさい。こんなにお世話になりながら、黙ってわたしは出て行きます。サヨリさんのような温かい人に、わたし、出会ったの、はじめてです。そんないい人に、わたしのようなものが、これ以上のご迷惑を掛け続けることはできません。ほんとうにお世話になりました。このご恩、わたしは一生忘れることがありません。ほんとうにありがとうございました。いつか、まっすぐサヨリさんのお顔に向かい、お礼の言葉が申し上げられるその日まで、さようなら。浜松望』
「ばかばかばかのばかやろーっ。どうやって生きて行くって言うんだよ!」
 サヨリは、ぐしゃぐしゃにして叩きつけた半紙を拾って読み直し、また「ばかやろーっ」と、怒りの声を投げつけた。文面から、親元へ帰ったとは思えない。
「何一つできないくせに、生意気言うんじゃないよ! ちきしょう、こうなることが分かっていたら、あたしのことを聞かせてやっていたのにさあ」
 さよりは六年前を思い浮かべた。六年と言えば最近だが、それはまったく、いまの望を見ているような過去だった。
 サヨリは現在二十五歳。大勢の漁師を抱える網元の子として根室に生まれた。物心のついたころから周囲は荒くれ男ばかり。そんな環境によるものか、幼少時のサヨリは、ままごと、おはじき、お手玉よりも、男子に交じってチャンバラ遊びを好むような子どもだった。
 そんな気っ風のサヨリだったが、血潮も騒ぐ十八を迎えたころともなると、やはり乙女の証明だろう。人さま並みの恋をした。
 親の目を盗んで忍び合うようになった相手は、以前から網元の家に出入りをしていた海の男だ。この男、漁師としては線が細く、男っぽさにも欠けていた。当時流行の太宰治を読みふけるような、サヨリの親から言わせたら、鼻持ちならない「場ちがい野郎」の一人だった。
 サヨリも最初のうち、「やわな野郎」だと小バカにしていた。ところが、あるころからその男の不思議な言葉に吸い寄せられていくのを感じた。
「真実は行為だよ。愛情も行為だよ。だから、表現のない真実なんてありゃしないのさ」
「怒涛に飛び込む思いで愛の言葉を叫ぶところに、愛の実体というものがあると思うんだよね」
「美しさに内容なんてありはしないさ。純粋の美しさってものは、いつでも無意味で無道徳なんだから」
「疑いながら、試すつもりで右に曲がってみるのも、信じて断乎として右に曲がってしまうのも、その運命としては同じことさ。どっちにしたって、引き返すことなんかできやしないんだから」
 言葉の持つ意味を、どこまでじぶんが理解したのか判っていない。それなのに、心がそれらの言葉にしびれてしまった。
 何のことはない。あとで知ってみれば、すべてが太宰治の言葉だった。それと知ったときはもう遅い。サヨリはすっかりユメの中。「あんなやろうにだまされやがって!」と、怒る親が鬱陶しくて、男とつるんで家を飛び出してしまった。
 男とは函館の安アパートに転がり込んだ。それから二カ月。お腹に子どもができたと知ったその晩から、男はフラリといなくなった。それっきり。
(いまさら実家には戻れないよ)と、サヨリはそこで出産した。それからがまたひと苦労。乳児を抱えて外出もままならない。だから内職で生計を立てようとしたが、それだけでは生活費どころかアパート代を賄うこともできなかった。
 サヨリは決めた。昼は内職に専念し、オッパイでお腹がいっぱいになった子どもを寝かせた夜の二〜三時間、近くのバーで働くことを。男相手は慣れている。抵抗もなく入って行けた。
 ある日の夜、けたたましいサイレン音が店の前を通過した。半鐘がカンカン鳴る。サイレン音がまた一台、更に一台。音が向かう先にはわが子が眠るアパートがある。いやな予感。
「ママさん、ごめんなさい」
 断わりを入れて店を飛び出すと、西の空が赤々している。サヨリは走り出した。角を曲がれば、そこが現場だ。
 野次馬の声が聞こえた。
「燃えているのは湯川荘だぞ」
(湯川荘!)
「あの、おんぼろアパートかい。火の回りが早そうだなあ」
 その湯川荘こそじぶんのアパート。絶望的。野次馬がじゃまだ。
「どいて、どいて。じゃまだよ、どけ!」
 ド突くように人の群れを分けて進むと、ロープが張られた最前列に飛び出した。ロープを掴み、潜ったところで警察官に抱き止められた。
「放して! あたしの子がいるんだよ!」
「だめだ、だめだ! 誰がいようと、ここから先はだめだ!」
「あたしの赤ちゃんなんだよ!」
「それを救うのは、あんたじゃない、消防士だ!」
「放せったら、放せ!」
「だめだったら、だめだ!」
「バカバカバカのバカヤロー!」
 もがけど叫べど、警察官は、ついにその手を緩めなかった。

 その日、サヨリはわが子を失った。火事は隣の部屋からの失火だったが、詫びられても、わが子が戻るわけではない。親を捨て、男に逃げられ、わが子を失い、サヨリは三日三晩、焼け跡の地に立ち尽くした。
 いま振り返っても、じぶんのバカさ加減に腹が立つ。バーから五分と掛らない距離とはいいながら、たかだか二〜三時間とはいいながら、眼の届かないところに乳飲み子を置くなんて。無知の社会に飛び込むことが、どれほど危険なことなのか。
(そんなイロハも、バカなあたしは知らなかった。だからなのさ。だからあの娘のことだって…)
「ちきしょう」と、また言った。
「あたしが悪かったんだね。あんたのお腹を、あたしが気づくべきだったよね。そうしていれば、あたしのことを話して聞かせてやれたんだ。きのうだって悪かったよ。あんたの子どもを見た途端、気を動転させちまってね。もっと冷静にしていられたら、もっとやるべきことをやってやれていたら、こんな心配しなくてすんだよ」
 窓の外はまだ四月。潮の風が窓に当たり、サッシのガラスをカタカタゆすった。うららの春にはまだ早いのだ。
「なっちまったら仕方がないさ。あんたが決めた道なんだ。ただね、ひとりじゃないんだ。投げ出すんじゃないよ」
 サヨリは、目の焦点を遠くに移した。雲の先のそのまた先へ。
「それでね、いいかい、いつかきっとだよ。いつかきっと、母子で元気な顔を見せるんだよ。…いつかきっと」
 サヨリの言葉は、たったひとりの部屋の中。

 乳飲み子を抱きながら、行く先の定まらない望もまた、いま出て来たばかりのアパートを振り返って、サヨリと同じ言葉を呟いた。
「いつかきっと…」
 望にとって、いま、一番感謝しなくてはならない人。「いつかきっと…」は、その人に向けた望からの誓いの言葉だった。(続。その前に、書き手はちょっと夏休み)