小説『木馬! そして…』19.

『ニッカバーサヨリ』に、その夜からニューフェースが登場した。
 内心、料金の二割アップが凶と出ないか心配していたサヨリだったが、結果は、無用な心配だった。(受け過ぎだよ)と、ヘソを曲げたくなるほどだった。なじみ客の中には、新参の娘を一目見るなり「ほ〜う、こりゃ、サヨリの上の白ギスだ」と、店主にあてつけがましく言う者まで出たのである。
 常連たちは価格の二割アップをすんなり承認。そればかりか、どこで聞きつけるのか、新顔の客が日ごとチラリホラリと増えていった。
 サヨリの親は北の漁師だ。それも、漁師を束ねる網元である。荒くれどもを束ねてゆくには、それ相当の気っ風がいる。力勝負の世界なのだ。そんな中で育ったせいか、女のサヨリにも男勝りの気っ風があった。夕暮れの街で望を拾ったのも、こんなように働かせるためではない。トボトボと歩く家出娘に情けをかけ、しのぎの一夜を与えようとしたのである。まさか二十歳とは思わなかった。バーでの仕事は、二十歳と聞いて思いついた「二重の情け」に他ならない。
「情けはひとのためならず」の言葉通り、下心のない情けなら、ブーメランとなって本人に戻る。サヨリにとっての望は、よもや天来の福音となった。天からの遣いを、こんな二階に押し込めたのではバチが当たる。そんなふうに感じたサヨリは、望のためのアパートを用意することにした。もちろん家賃は「あたし持ち」で。
 手ごろなアパートはすぐに見つかった。四畳半一間に半畳の炊事場つき。望を部屋に案内して、サヨリは言った。
「これがあんたの新居だよ。どうだい、一人暮らしには不自由しない広さだとは思うんだけど」
 サヨリは、望の満面の笑みを予想していた。感謝の言葉も、期待はしないが予想はしていた。ところが、望の反応は予想を外れたものだった。「すいません」とか「ありがとう」とは言ったけど、笑みも少しぐらいは見せたけど、どこかに小さなかげりがあって、ありがたさが伝わって来ない。
(いまどきの若いのって、こんなもんかねえ)
 じぶんだって十分若いくせに、手応えの無さに少々がっかりした。しかし、看板娘を囲い込めたという点での不満はなかった。 

 望が新居に移って六日目のこと。その日、望は店を休んだ。
(何だい。うちの二階から移してやったら、いきなり無断欠勤かい)
 サヨリはムッとしたけれど、すぐに思い返した。
(風邪でもひいたかなあ…)
 開店時間が来てしまったから見に行けない。電話なんか置いてないから、どんな様子か聞くこともできない。
(でもまあ、子どもじゃないんだから、熱でも出せば医者に行くだろう)
 そう思って、その日はそのままやり過ごした。ところが、翌日になっても望は出店して来なかった。いやな予感。
「何だよ。きょうも白ギスちゃんは休みかよ」
 望が来てからというもの、連日顔を見せていた常連客のタケさんが、店に入るなりタコのような口をした。
「見て来るわ。悪いけどタケさん、ちょっと留守番しててよね」
「えっ、おれが?」
「ビール出して飲んでていいから」
「客が来たって知らねえぞ」
「そのときはカウンターの中に入って、飲み物ぐらいはお客の注文聞いてやってよ」
「バカ言うなよ。おれはおめえ…あっ、おい! ちょっと! おい! 何だよ、あらら、行っちまいやがった」
 望のアパートまでは歩いて十五分。小走りにして十分ほど。サヨリは急ぎながら、いろんな場合を想定した。想定にもよるけれど、優しく出ようか、一発ドカンとくれてやろうか。いやいや、まずは理由を質すことだ。あれこれ考える間もなくアパートに着いてしまった。
 トントンと階段を上り、望の部屋の前に立ったサヨリは、そこで耳を疑った。部屋の中から赤ん坊の泣き声が聴こえたからだ。
(客だろうか?)
 コンコンと、ドアを軽く叩いた。
 返事がない。赤ん坊の泣き声だけが聴こえている。
 もう一度、今度は強めにコンコンと叩いた。やはり返事がない。
 サヨリはドアのノブを回した。カギは掛っていなかった。ドアを引くとギィ〜ッと開いた。玄関口には、客のものと思える履物がない。客ではなかった。目線を上げると、赤子を抱いた女が、身を小さくして、かしこまっていた。
 サヨリの目が点になった。
「あんた…」
 赤ん坊を抱いているのは望だった。その眼が力を失っている。多分、サヨリが来るのを予期しながら、どうすることもできないで、まな板の鯉となってしまった眼だ。
「あんだ!」
「…」
「それって、あんたの…」
 望が小さくうなずいた。
「いつ?」
「きのう」
「どこで?」
「ここで…」
「えっ? あんた一人で?」
 望は、うつむいたままうなずいた。
「顔のわりに、ちょっとばかり下半身が太めかとは思ったけど、まさかあんた…。こうなるってこと、知っててあたしに隠していたんだね!」
「…」
「そりゃサギじゃないか。冗談じゃないよ! どうしてくれるんだよ、この始末は!」
 望は赤子を抱いたまま、サヨリを上目使いに見た。どうしてくれると言われても、どうすることもできやしない。
「ばかやろう! あんた、二十歳なんてうそだろう! ただの家出人かと思っていたら、親兄弟ばかりか、てめえの子にも迷惑掛けやがって!」
 赤子をしっかり抱いたまま、肩をがっくり落としている。
「ばかやろう! 何とか言ったらどうなんだよう!」
 何とも言えない。言いようがない。
 望の肩が波打ちはじめると、堪える力を失って、ついに激しくしゃくりあげた。親が泣けば手の中の子も泣く。赤ん坊の泣き声は、望の声に輪を掛けた。
「チェッ。何てざまだよ、まったく。…いいよ。もういいから」
 サヨリは、ふ〜っと大きな溜め息を吐いた。
「もういいって言ってるだろう。泣いてどうなるもんじゃないよ。授かったのは事実なんだから。仕方ないよ」
 サヨリは部屋に上がって窓辺に立った。
「ほら。外は風だよ。まだ寒いんだよ。あしたは医者に行くんだね。あたしが迎えに来てやるよ。出生届のこともあるし、買出し物もあるだろう。み〜んな、あしただね。しばらくは動けないだろうけど、動けるようになったら、親元へ帰るんだね」
 望が涙の顔を左右にふった。それが何を意味しているのか、サヨリには分からなかった。
「とにかく、いまは静かにしているんだよ。いまここで必要なものはないかい?」
 望は首をふった。
「食べるものはあるのかい?」
 望がうなずいた。
「オッパイは出るのかい?」
 またうなずいた。 
「じゃあ、店を開けたままだから、あたしは帰るよ。あしたの朝には来てやるから、それまで一人で頑張るんだよ。いいね。そうそう。何かあったら、公衆電話から電話をよこしな。電話、ここを出た角のところにあるからさあ。ほら、電話番号はこのマッチにある。ここに置くよ。分かったね。じゃあ、行くからね。このバカタレが」
「すみません」
 サヨリは「じゃあね」とクツをはいてドアを出てから、赤ん坊の顔を見て来なかったことに気づいた。
「見忘れたけど、仕方ないよ。あたしだって、アワを喰っちゃったんだからさあ」と、誰に言うともなくつぶやいて「ふふ」と笑った。そのあとすぐ、「笑うどころじゃないよ、バカ」と言ってから、「誰がバカなんだかねえ…」と消え入る声。少し余裕が生まれたようだ。(続)