小説『木馬! そして…』18.

11.ばかやろう!

「あんた、どこへ行くの?」
 髪をてっぺんでぎゅっとしぼり、早採りのタマネギみたいな頭をしている黒いドレスの女だった。手には風呂桶を持ち、石鹸の匂いを漂わせていた。
「行く宛て、あるの?」
「…」
「やっぱりね。家出だろう? 判るよ。困っているんだろう? 泊めてあげるよ。ついておいで」
 女は、うしろも見ないで歩き出した。ついて来ると確信しているようである。望は、お腹の重みも加わって、足がパンパンになっていた。それに、(どうなってもいい)という捨て鉢な気持ちもあった。だから女の言葉に従った。
 女は『ニッカバーサヨリ』と書かれた店の前まで来ると、カギの掛っていない粗末な扉を引き開けた。
「お入りよ」
 振り返ってそれだけ言うと、女はスルリと中に消えた。こうした店は、望にとって初めてではない。高校を退学処分になったあと、自由人としての生活の中で、自由なやつらと経験している。だから、見ず知らずの街ではあったが、抵抗感はそれほどなかった。女を追って中に入る。
 パチッと音がして電気が点いた…といっても明るさが足りない。女の顔が真正面に見えたけど、トシを読み取るほどに明るくはなかった。
「ここがあたしの店。働いているのはあたしだけ。ちっぽけな店だけど、これでも人気の店なんだよ。カウンターに止まり木が八つ。九人目の客は入れないから、ブツブツ言いながら帰るやつが毎日五人や十人いるんだからね」
「…」
「店の名はサヨリ。あたしの名もサヨリサヨリって魚の名前なんだけどさあ、あれはスラ〜ッとしていて見た目が美しいし、刺身にすると味もいいんだ。でもね、お腹を開くと真っ黒なんだよね。笑っちゃうよね。あるとき酒ぐせの悪い客がいてさあ、もう来ないようにしてやろうってんで、料金二倍に吹っかけてやったんだよ。そしたらそいつ、あたしのこと「サヨリか、おまえは!」ってね。(それ、おもしろい)って思ってさあ、それを店の名前にしちゃったんだよ。ついでだから、あたしの名前もそれにしちゃったってわけ。悪人づらしている方が、世の中、やりやすいんじゃないかと思ってね。おかしいだろう?」
 女はひとりで笑った。
 目がようやく馴れて来ると、女のトシも見えて来た。言動とは大違いで意外に若い。(まだ二十代の中ごろだろう)と望は思った。それに、思いのほか美人だった。
「二階に布団が一組あるんだ。あたしの仮眠用にね。たった三畳きりだけど、眠るだけなら問題ないよ。今夜はそこに泊まればいいさ。あしたのことはあしたのこと。疲れてるんだろう? 上にあがって横になりなよ。そろそろ客が来はじめる。あんた可愛子ちゃんタイプだから、客に見せるとうるさいからね。逃げちゃった方が楽ってもんだ。あとでピラフでも持って行ってやるよ。なに、あたしの夜食のついでだから手間いらずさ。ああ、あたしの寝床は別にあるから心配なし。さあ、早く行った行った」
 こんな場面を二年前までの両親が見たら、どんな顔をして何と言っただろう? いまでは怒るどころか、涙のかけらも見せないだろうけど…。
「すいません。お世話になります」
 望はペコリと頭を下げて、二階への階段を昇った。たたんであった布団を延べて横になる。部屋の様子がどうだこうだと思う間もなく、睡魔はすぐにやって来た。
 
 店がいつ終わったのか、望はまったく気づかなかった。午後の十時を過ぎたころに一度起こされた。サヨリが差し入れのピラフを持って来てくれたのだ。望は遠慮なく食べた。そのときはまだ、階下で男客らの声がしていた。

 翌朝、階下からの音で目が覚めた。フライパンらしい金属音と、ジューッという何かを焼く音。あわてて起きようとして、コツンと壁に頭を当ててしまった。
「起きたかい?」
 音が聴こえたらしい。サヨリの声が下から届いた。
「はい」と返して布団をたたみ、手で髪を整えただけで階下に降りた。
「どうだい。よく眠れたかい?」
「はい。お陰さまで」
「そりゃあよかった。ほら、目玉焼きができたよ。いま紅茶を入れるから、一緒に食べようよ」
「すいません」
 どうしたのかと思うほど、望は不思議な気分になった。すっかり忘れていたはずの家庭の会話がここにあった。
「ねえ、紅茶、レモンにする? それともミルク?」
「あっ、同じでいいです」
「どっちかって聞いてんの。答えはAかBか。どっち?」
「じゃあ、ミルクで」
「なんだ。やっぱり同じか」
 サヨリは粉ミルクのビンを取り出すと、望の前にポンと置いた。
「はい。熱いから気をつけて。目玉焼きは、しょうゆでも塩でも、好きな方を使ってよ。それと、パンはコッペね。そこにジャム出しといたから、じぶんで好きにつけること。人造バターがよければこっち」
「すいません」 
 ふたりはカウンターを挟んで向かい合い、紅茶をすすり、目玉焼きとパンを食べた。
 バーには不似合いな柱時計が「ボーン」と一つ鳴った。八時半を告げている。
「ぷっ」とサヨリが吹いた。(どうしたのか?)という顔で、望がサヨリを見た。
「ごめん。だって、おかしかったんだもの。あんたの右目の横のホクロ、ほら見て。あたしとまったく同じところじゃない。位置も大きさも」
 なるほど、見ればじぶんとそっくりのホクロがサヨリの右目の横にもあった。でも望は、それが吹くほどおもしろいとは思わなかった。
「おかしくないの? おかしくないんだ。あんた、何だか感動性に欠けてるねえ。まあ、それぞれだけどさあ」
 少し、場が白けた。
 サヨリが二杯目の紅茶を注ぎながら言った。
「ところであんた、きのうも訊いたけど、行く宛てあんの?」
 望はうつむきかげんに小首をふった。
「だろうね。いくつになるの?」
「二十歳」
 望は、とっさに二歳サバを読んだ。特別な意味があるわけではなかったが、バーという環境がそう言わせただけである。
「ほんとう? あたしの読み違い? まだ高校生かと思ったよ。まあいいけどさあ」
 サヨリはコッペを千切って口に入れ、紅茶をゴクリと飲んで言った。
「人生ってのは、さまざまだよねえ。人間である限り、過去には口外できないようなことをやっているしねえ…。あっ、あんたのことじゃないよ。あたしもそうだし、一般論。誰だってそうだと言っているんだからね」
「…」
「星が願いを叶えてくれるなんて思っちゃいない。星や月が優しく微笑むなんてこともない。でもね、そう言い切ったら希望の灯が消えちまうよね。消しちゃダメなんだよ。チョロチョロの灯でもね。うん。はじめチョロチョロって言うだろう? チョロチョロでいいんだよ。店の中、暗いだろう? わざとなんだ。あんまり明るくしちゃうと、明かりにせよ何にせよ、ありがたさってものを忘れちゃうからね。紅茶、もっと入れる?」
「いえ、いいです」
「そう。水の方がよければあっち」
「…」
「でもさあ、チョロチョロって、はじめだからだよ。チョロチョロのあとは中パッパ。ボウフラだって時が来ればドブから飛び立つんだからさあ。ジメジメ生まれて、そこでジメジメ朽ち果てるのを苦にしないようだったら、時が来ても希望の羽は宿らない。結局、最後はじぶんってことかなあ。ふふふ…。余計なお世話か」
「…」
 望に反応がないので、会話が一句ごとに途切れてしまう。コチコチコチ…と柱時計の音が聴こえる。
 サヨリが、思いついたように言った。
「あんた二十歳って言ったよねえ」
「はい」
「二十歳と言えば成人だよね」
「…」
「何でも、じぶんの意思に任された大人だってこと。だったらこういう手があるよ。どうせ行く宛てがないんだし。よかったらさあ、しばらくうちで働いてみないかい?」
「はあ?」
「聴こえなかった? 行く宛てがなかったら、うちで働かないかって言ったの」
「ここでですか?」
「そう。カウンターの中に立って、客の話し相手になってやるだけでいいんだよ。これっぽっちの店だから、それほどのお金は出せないけどね、寝る場はあるんだ。上にね。夜食も出すよ。きのうの晩みたいなもんだから、大したもんじゃないけどさあ。仕事は夜だけだから、一日せいぜい四時間ってとこかな。どう? 寝床と夜食付きで一日千円。新しい仕事が見つかるまででいいんだよ」
「はあ?」
「やだねえ、この人。肝心なところになると聴き返すんだから」
「あっ、すいません。わたし、左耳が聴こえないんです。だから…すいません」
「ああ、そうなんだ。とぼけてるのかと思ったよ。そう言えばあんた、右耳を突き出していたもんね。ときどき、ブロマイドは右顔だけとか言う女優がいるらしいけど、その口でもなかったんだ。え〜と、やだ、どこまで話したか忘れちゃったよ」
「一日四時間とかって」
「ああ、そうそう。一日四時間程度の仕事で、寝床と夜食つき、一日千円。あんたが新しい仕事を見つけるまで、この条件でここの仕事をやってみないかい?」
 働いたことのない望には、一日千円という金額が高いか安いか分からない。ただ、それ以前の問題として働き口は必要だった。家を出るとき持って出たのは、じぶん自身でためた小遣い分の貯金だけ。その小遣いも高二の途中までにもらったもの。不登校になってからはもらっていない。遊び回っていた身でもあり、残っていたのはわずかな金額。しかも、その大半がここに来るまでの運賃などで消えてしまった。今晩からの宿泊代も、このままでは何日と持たない。
(やってみて、いやなら辞めればいいことだ)
 望は「やらせてもらいます」と頭を下げた。
「よし、決まったね」
 サヨリは、さっそくメニューの価格を改定した。全品二割りアップ。
労働人口が二倍になったんだから、労働コストも二倍。そうなると料金も二倍にしないと計算が合わないけど、まあ二割アップに負けておくよ」
 そう言ってサヨリはペロリと舌を出した。いかにもいたずらっ子を装っているが、ほんとうのところ、そうでもしないと二人分の喰いぶちを得られないと思っていた。(続)