小説『木馬! そして…』7.

4.真実の灯り

 元町あかりの告白は、それなりの反響を呼んだ。テレビのワイドショーや週刊誌、スポーツ紙の芸能面などが、こぞって取り上げたからだ。しかし、その扱いは興味本位に走るものが多かった。一部の週刊誌などは、「捨てられていた絹のハンカチ」といった見出しをつけて、差別まがいの書き方をした。
「週刊誌って、どうしてこんな見出しをつけるのかしらね」
『ハーブランド那須』の香川幸子は、コンビニから買い求めて来た週刊誌を、苦々しい顔で読んだ。
「そんな顔して読むために、わざわざそれを買って来たの?」
 次女のコモが半ばあきれ顔で言ったけど、翌日も幸子は、別の週刊誌を買い込んで来て娘たちを不思議がらせた。
 同じころ、当の本人元町あかりも、それらの週刊誌をマネージャーに買って来てもらい、一通り目を通した。 
「元町、捨て子!」
「あかりの灯りは暗かった!」
「函館エレジー・元町あかり」
 どの見出しにも、ありがたくない言葉がおどっている。しかし、告白すればこうなることは自明のこと。どう書かれようと覚悟はしていた。書いてもらうことが先決。書いてもらい、木馬の恩人にたどりつくことができるのなら、それが一番だと思っていた。
 元町は最初のうち、じぶんを産み捨てた母を恨んだ。そんな人はもともとこの世にいなかった─と、その存在を否定しようとさえした。かぐや姫は竹から生まれた。桃太郎は桃から生まれた。「じぶんは……よくわからないから、北海道の阿寒湖の湖底でゆらぐマリモから生まれたことにしちゃおうかな」─と考えたりしたこともある。
 元町あかりの本名は月丘愛。名字の「月丘」は、両親不明につき、孤児院の院長先生と役所との協議によって決定されたものだと聞いた。院長先生が里親ではあるけれど、院長先生の養子になったわけではない。
 名前の「愛」だけは院長先生の命名かと思っていたら、これもちがった。じぶんを産んだと思える人がメモとして書き残したものだと、あとになって聞かされた。
(愛って、わたしを産み捨てた人がつけた名前だったんだ)
 それを知ったとたん、愛はその名が嫌いになった。のちに女優になったとき、他人が羨む職業につけた喜びよりも、日常において戸籍上の名前を名乗らなくてもよくなった喜びの方が大きかった。

 じぶんの素性に関する洗いざらいを院長先生が話してくれたのは、愛が十八歳を迎えた春だった。そのときすでに、東京のテレビ局での受付業務という就職口が決まっていた。
 院長先生は、愛を院長室に呼んで言った。
「あなたは間もなくここを出て行きます。どの卒業生にもそうしてきたように、あなたにもきょう、あなたに関するすべてをお話しします」
 その日、愛の出自が明かされた。孤児院で育ったのだから、じぶんの出自が並みのものではないことぐらい理解していたが、はじめて覗いた真実の扉の奥は、想像以上に息苦しかった。
 院長先生は、愛の目を見つめながら、時間をかけてゆっくり話した。まずは、愛がおくるみに包まれて道沿いの祠の前に置かれていたこと。おくるみの中には、神社のお守りが入っていたこと。お守りは氷川神社のものだったが、全国あまたある中で、どこの氷川神社か判らなかったこと。そのお守りには、折りたたんだ小さなメモが入っていて、「この子をお願いします」とエンピツの走り書きがしてあったこと。横にはもう一言。「わたしはこの子を愛ちゃんと呼んでいます」の言葉が添えられていたこと。
 祠の前の愛は、発見者らの手によって病院へと運ばれたが、木彫りの馬は、その際に発見者からプレゼントされたものだということも聞かされた。
 院長先生は、「あなたのお母さんは、身勝手からあなたを捨てたわけではありません。このお守りと走り書きが何よりの証明です。きっと、そうするしかない何かの事情があったのでしょう」と言ったけど、愛は、それを素直に受け入れることはできなかった。
(勝手に産んでおきながら、その子を捨てる事情なんてどこにあるんだ!)
 これが愛の、その時点での気持ちだった。
 じぶんの生い立ちを知ってから、愛はいくつも母のユメを見た。
 ユメの中、母は鬼の顔をしていた。振り乱した髪から突き出た二本の角。目と目を寄せて歯をむき出し、怒っているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。鬼の母は、麻でできた網目の袋をズズーッ、ズズーッと引きずっていた。泥にまみれた袋の中に、モノのように放り込まれているのは、まだヘソの緒も取れていない赤子のじぶん。赤子のじぶんは赤子のくせに、大人びた声で泣き叫んでいる。あまりに激しい泣き声で、ハッとわれに返ってみると、枕をぬらして泣いていたのは大人になったじぶんだった。ユメから覚めても涙がこぼれる。そんな日は、この身が風のようにここから流れ、煙のように消えてしまえばいいのにと、切ないわが身をもてあました。
 愛は「元町あかり」として、二十歳でスクリーンにデビューした。その映画『朝風の中で』は、製作した映画会社の予想を遥かに超える大ヒットを打ち出した。
 主演の池田利夫は当時の邦画界のトップスターだったが、相手のヒロイン役は、作品中の役名「元町あかり」の名でデビューした無名の新人。その新人が、あれよあれよの大ブレーク。一気に〝あかりブーム〟が巻き起こった。
 本人も驚いたが、製作会社はもっと驚いた。単打の期待が場外ホーマー。慌てて続編、続々編を製作した。三本目となる最終編では、字幕のトップが池田利夫から元町あかりに代わったので、以後、池田は元町との共演を拒むというオマケまでついてしまった。
 ともかくも〝元町人気〟は不動となった。そのことは、生きる上での自信となり、月丘愛の心の幅を広げたようだ。
 その証しだろうか。愛が見るユメの中の母に、変化の兆しが見え出した。例えば、じぶんを小さな祠の前にそっと置き、振り返り、また振り返りつつ去って行く人のユメ。その人は泣いていた。肩をふるわせ「ごめんなさい」を繰り返していた。
 ユメに変化が出たと言っても、鬼の顔の母のユメが無くなったわけではない。その後もユメの中に出て来る母は、鬼になったり、か弱い女になったりした。
 愛が二十五歳を過ぎたころ、母の髪から角が消えた。同時に、孤児院の院長先生の言葉が甦った。
「きっと、そうするしかない何かの事情があったのでしょう」
 しかし、置き去られたのは事実なのだ。発見が少しでも遅れていたら、じぶんは赤子のまま、地球の何一つを知ることもなく終わっていたのだ。人は皆一冊の本。頁をめくれば、その本でしか知り得ない大切なものが載っている。ところがわたしは、製本どころか、たった一字の印刷さえされないまま、その生命を終えていたかも知れないのだ。簡単に許してしまっていいのだろうか。
 じぶんの中で「許したい」と「許せない」のせめぎ合いがはじまった。「許したい」とする言葉の先にあるのは「会いたい!」という言葉。では「許せない」という言葉の先にあるのは…。それが、なかなか見つからなかった。

「許せない」の先にある言葉。それが見つかったのは、五十三歳の誕生日を迎えた日の朝だった。その朝、目覚めてス〜ッと口から出た言葉。
「許せない─と思う心の悲しさは、許せる心の百倍悲し」
 愛はこの言葉を、二度三度と声に出してくり返した。ふつふつと盛り上がって来るものがあった。
 その日、愛は一つの決断をした。
(一年たったら、じぶんの生い立ちを公表しよう。その結果、母が現れてもいいし、現れなくてもいい。生い立ちを封印したまま人生のエピローグを迎えるよりはずっといい。最終章を迎える前に木馬の恩人に出会えたら、それこそ何にも増してよい)
 これが元町あかり・月丘愛の決断だった。

『わたしの宝物』の放送から数日すると、放送局を通じ、あるいは所属事務所を通して、元町あかりのもとに木馬に関する情報が、いくつも寄せられて来た。
「木馬は、わたしがあなたに贈ったもの」
「木馬は、わたしが落としたもの。ずっと探し続けていた」
「あれは、わたしの知人が製作したもの」
 情報はさまざまだったが、「わたしが贈り主」としながら、地域や病院名が違っていたり、「わたしが落としたもの」と主張しながら、時期や場所に関する情報に一切ふれていないものまであった。
 しかし、「これは…」と思う真実性の高いものが無いわけではなかった。那須高原でハーブ園を営む女性からの手紙は、元町あかりが「これは…」と思う筆頭のもの。文面に真実の灯りがチラついていた。
 元町あかりは、情報を寄せてくれたすべての人につぎのような手紙を書き送った。
『貴重な情報をありがとうございました。あの木馬があってこその人生と、木馬をお貸し下さった方に心底感謝いたしております。木馬の恩人さまには直接お会いして、大切な木馬をお返しすると共に、心からの御礼を申し上げたく思っております。
 ところが、少し困ったことが起こりました。というのも、その贈り主だとおっしゃる方が多数に及んでしまったことです。古いことなので、情報の中に、思い違いや記憶違いが混ざってしまったのだと推察いたします。
 そこでお願いです。貴重な情報をいただいておきながらこのようなお願いは心苦しいのですが、一つだけ質問をさせていただくことをお許し下さい。木馬のお腹に、文字が一つ彫り込まれています。それが何という字かご記憶がお有りでしょうか。ご記憶がお有りでしたら、どうぞお教え下さいますよう…(以下略)』(続)