小説『木馬! そして…』5.

3.黄色いリボン

 四方を林に囲まれた函館市郊外の私立の児童擁護施設『コスモスの家』。
 理事長の月丘恵子は、普段はほとんど見ることのないテレビに電源を入れた。『わたしの宝物』という番組を見るためだ。
 月丘理事長は、かつて孤児院の院長をしていた。元町あかりは、その当時、孤児院であずかった子どもの一人である。
 元町あかりというのは芸名で、本名は月丘愛。
 月丘愛が乳児院を経て孤児院にやって来たのは三歳のときだった。その時点で両親は不明。だから名字も判っていない。親が書き残したと思われる「愛」という名前だけが存在していた。院長の月丘恵子は、身寄りのないこの子のために里親となった。また戸籍を作るにあたっては、役所との合議の結果、養子縁組ではなかったが、自身と同じ月丘姓となった。
 月丘愛は十八歳で孤児院を出て、東京新宿にあるテレビのキー局・サクラテレビの受付嬢となった。北海道にあるサクラテレビ系列局からの紹介によるものだ。幅の広い交友関係を持つ月丘院長の口利きがあってのこと。月丘院長は、自ら上京し、愛が住むアパートの手配から住民登録まで、すべてにわたり手助けをした。
 ガラス張りのテレビ局玄関ホールの正面に座った乙女は、清らかで、愛くるしくて、やがては真っ赤に熟れた実をつける白いリンゴの花のようだった。
 テレビ局には、毎日たくさんの人が出入りしている。表舞台を飾る有名人もいれば、舞台の裏で有名人を支える人。その人たちを起用して舞台を創り上げる人。大道具担当、スタイリスト、歌手、政治家、財界人、技術者、番組スポンサー、その他いろいろだ。
 もちろん、アイドルのたまごを探し求めている芸能スカウトの姿もある。そんな彼らなら、テレビ局の受付に咲いた香しい一輪を、見逃すようなことはしない。月丘愛の争奪戦は、愛が受付に座って間もなくはじまったが、愛は、それらの誘いを拒み続けた。(じぶんは孤児院出身だから、表舞台に立ってはいけない。立てばいつか後悔する)という無用な思いが、心のどこかにあったからだ。
 愛が現在も所属しているプロダクションの社長は、誰の誘いにもガンとして応じない愛に(しめだ!)と思った。ワザ師にとっては、そこがつけ目だ。
 社長は、そこからそれほど時間を置くこともなくケリをつけた。子うさぎを見たハヤブサのように、百発百中のワザで月丘愛を落としたのだ。
「この子は百万ドルの花電車さ」
 そう言って社長は、月丘愛をレールに乗せた。花電車が走り出す。月丘愛は、プロの仕立てたスター・ロードを、二十歳で走り出した。芸名は「元町あかり」。本人の希望ではない。デビュー作となる作品中の役名をそのまま芸名にしたのである。大物新人を印象づけるためのプロダクションの作戦だった。
 この作戦が的中したのか、生まれながらの素質が開花したのか、彼女のデビュー作は空前のヒットとなった。清純派・元町あかり時代の幕開けである。
 道は順調だった。以後、テレビドラマでのゴールデンタイムへの進出。新宿コマ劇場での看板公演。スクリーン上では最優秀助演女優賞、最優秀主演女優賞の相つぐ受賞。大女優への階段を、元町あかりは着実に昇って行った。
 女優としての活躍のかたわら、現在ではユニセフ親善大使の任命を受け、世界の貧しい子どもたちへの慰問の旅も続けている。
 今朝、月丘理事長が早くからテレビを点けたのは、昨夜元町あかり本人から、「あしたの朝、テレビに出演します」と連絡を受けたからだ。国民的人気女優の元町が、テレビに出ることなど珍しくない。だから、テレビ出演を一々知らせて来ることもない。今回に限り知らせて来たことには、(何かわけがあるのだろう)と理事長は考えた。そこできょうだけは日課の早朝散歩を取りやめて、テレビの前に座ったのだ。
「あら、きょうはお散歩じゃなくてテレビですか?」
 昨夜宿直当番だった保育士の大平美佐江が声をかけた。
「そうなの。愛さんが出るものだからね」
「お知らせがあったんですか?」
「ええ。いつもはテレビに出るなんて言って来たことないのに、どうしたんでしょうねえ」
「どんな番組ですか?」
「え〜と、何でしたっけね」
 理事長はメガネを取りかえ、新聞の番組表に目を通した。
「あっ、これこれ。『わたしの宝物』ですって。対談番組みたいね」
「あっ、それ知ってます。じぶんの宝物を見せて、それへの想い入れといったものを紹介するんですよね」
「あら、そうなの」
「ええ、そうなんです。時間が許すときは見るんですけど、日曜日の朝向きというか、ほのぼのとした話題が多く、とてもいい番組ですよ。元町さん、どんな宝物を出すんでしょうね」
「そういうことは電話で話さなかったわねえ。テレビ見て下さいって、それだけ」
「そうなんですか。気になるなあ。わたしも見ちゃおうかな。いいですか?」
「もちろんよ。そのイスをこっちへ廻しなさいな」
「では、失礼して」
 大平美佐江がこの施設で働くようになってから、かれこれ十五年になる。その間に元町あかりは何度もここに来ているので、ふたりには面識がある。…というより、トシは美佐江の方が四つ上だけど、ほぼ同世代という親近感が手伝って、元町の来訪時にはふたりの会話がよく弾んだ。最近は年賀状も出し合っている。
 番組がはじまった。
・・・・○・・・・○・・・・○・・・・○・・・・
「さっそくですが、元町さんの宝物を見せていただけますか?」
「はい。これです」
「まあ、すてき。木ぼりのロバちゃんですね」
「いえ、お馬ちゃんです」
「失礼しました。お馬ちゃんでした。見たところ、大層古いもののようですけど、これ、元町さんがお子さんだったころのものですか?」
「ええ。…というか、できたのは、もっと古いと思います」
「もっと古い? すると、元町さんのために作られたとかのオモチャではないと…」 
「はい。たまたまわたくしのところに転がり込んだというか…。ごめんなさい。話が通らなくて」
・・・・○・・・・○・・・・○・・・・
(…?)
 大平美佐江が首を傾げた。元町のことではない。
(あの木馬…。黄色いリボン。わたし、どこかで見た気がする)
 そのことを話そうとして理事長を見ると、理事長はイスの背もたれから身を起し、元町の言葉に聞き入っている。眼差しも真剣で、話しかけられるムードではない。
 画面では、元町あかりの告白がはじまっていた。
「封印を解いたのね」と理事長がつぶやいた。
「はあ?」
 美佐江は理事長の言葉を待ったが、何も返らなかった。
「おわり」の字幕を見届けてから、理事長が美佐江に言った。
「テレビを見てって、このことだったのね」
「祠の話、はじめて知りました」
「あの人の生い立ちについての詳しいことは、あの人も口にしなかったし、あの人以上にあの人のことを知っているわたしは、決してそれを口にすることなくここまで来たの」
「元町さんが孤児で、先生が里親になられたというお話は、うかがっていましたけど…」
「ええ、そこまではね。でも、その話でさえ、知っているのはあなたたち数人のこと。ましてや、あの人が道端の祠の前に置き去りにされていたなんて、わたしの口から伝えたのは、あの人本人にだけなんです。それも、あの人が十八歳になって、当時の孤児院から独立することになったときにね」
「そうだったんですか。元町さん、ずいぶん考えた末の告白だったんでしょうねえ」
「だと思うわ。それを独りで決断する。あの人らしいわね」
「すごいことだと思います」
「ええ。すごいこと。人はみな幸福を求めるけど、どれが幸福かを知っている人は少ないと思うの。でも、あの人は知っている。いまの告白、すごいことです。ええ、すばらしいこと…と言ってもいいわ」
 理事長の目は、過去の遠くを見ているようだ。じつは美佐江は、木馬のことが訊ききたかった。しかし、理事長の心の泉は、いま、汲みきれないほどに溢れている。九十一歳という高齢でもある理事長。わたしごとを尋ねるには、このタイミングがふさわしいとは思えない。だから美佐江は、移動させたイスを戻し「失礼します」とその場を離れた。
(それにしてもあの木馬…)が、美佐江の脳裏を駆け巡っている。(続)