小説『木馬! そして…』3.

2.しんせん農場

 札幌駅から学園都市線で北へおよそ三十分。広大な石狩川が望める位置に女性ばかりの農場がある。無農薬、有機農法による野菜作りをしていて、直売のほかにインターネットでの受注販売も行っている。ただし、販売のみを目的としているわけではない点において、他の農場と少し性格を違えている。
 農場の名は『愛の里しんせん農場』。その名にある「しんせん」とは、農作物の「新鮮」のことだろうと大半の人は思っているが、実際は「心洗」。心を洗うという意味。現在は二十三人の女性スタッフが、朝早くから農事作業に従事している。
 スタッフの年齢はまちまちだ。世間では「お嬢ちゃん」で通る児童も居れば、「おねえさん」「おばさん」「おばあちゃん」と、呼び方を変えなくてはいけないさまざまな年齢層が入り交っている。最年少は十二歳、最年長は八十八歳。
 彼女たちに共通しているのは、それぞれが苦悩を背負ってこの農場にやって来た─ということだろう。自分ではやってはいけないと思っていることを、心ならずもやってしまった人たちが、心を洗いに飛び込んだザンゲの場。ある種の駆け込み寺的性格を持った農場なのだ。
 苦悩の中味は、もちろんそれぞれに違う。共通しているのは、背負った苦悩に押し潰されそうになる寸前、ここを見つけて転がり込んだ─という点だ。
 最年少の少女は、三年前の九歳のとき、母親をナイフで刺した。聴くに値する理由があってのことではあるが、行為そのものは許されざること。母親の傷も相当深く、殺人未遂の罪で捕まった。家庭裁判所から保護観察処分を受け、二年間更生施設に収容されたのち、一年前からここに来ている。
 最年長の女性は、他人のモノを盗んだ過去を持つ。大層なモノを盗んだわけではないのだが、そのことで負った心の傷はいつになっても癒えない。そうした中、この農場の存在を知ってやって来た。もう三十年も前のことだ。
 農場におけるスタッフとしての一サイクルは、一応五年とされている。それだけあれば心が洗えるとの判断からだが、五年では心が洗えないという人は、希望すればもう一サイクル。それでもだめなら更に一サイクルと、五年単位で延長することができる。大抵の在籍者は五年でここを出て行くが、例の最年長の女性の場合は、そのサイクルを延々と積み重ねて現在に至っている。そればかりか、いつかは出て行きそうな気配も見せない。すでに八十八歳。死ぬまでいる気かも知れない。
 在籍が許されでも、ここにいるかぎり仕事は年齢と関係なく平等に与えられる。八十八歳という高齢であっても例外にはならない。だが、それを大変と思うのは周囲だけ。驚いたことにこの老女、何をやらせても他のスタッフに負けていない。農作業でも炊事でもホイホイこなす。農場長は人格者だから、「心洗に定年はありません。洗い足りなければ、百歳までいたらいいのよ」と、大きな心で老女を見ている。
 スタッフたちの願いは一つ。ここで生まれ変わること。ほとんどの在籍者が五年後には、瞳の中の濁った部分を洗い落として旅立って行く。
 農場長の名は浜木みゆう。七十六歳。スタッフから「みゆ先生」と呼ばれて親しまれている。 
 浜木みゆうが農場づくりに取りかかったのは、昭和三十八年のこと。札幌市郊外の小さな農場を買い取って野菜作りをはじめたのがその第一歩だった。目的は、過去のじぶんのように、心に傷を負った女性たちに、救いの手を差し伸べること。心に刻み込まれた傷は、タトゥーと同じだ。時間の経過だけでは消し去れない。浜木みゆうはそのことを、自身の体験から知った。
『傷を消すには、まず反省。そのあと、一旦われを忘れること。ポイントを切り替えて、いま走っているレールの上から一度離れてごらんなさい』─これが浜木みゆうの結論だった。野菜作りはそのための手段で、それ自身を目的とするものではなかった。
 浜木みゆうは昭和八年、栃木県那須郡黒磯町(現・那須塩原市)で生まれた。四歳のとき警察官だった父を失い、以来みゆうは、母一人子一人という母子家庭で育った。
 みゆう四歳の夏のこと…。
 その日は異常な暑さだった。みゆうは近くの余笹川の河原に降りて、近所の子らと水遊びに興じた。非番の父は、土手から子らを見守っていた。忌まわしい事故が起きたのは、まさにそんなときである。
 山の天気は特有のもの。瞬時に表情を一変させる。炎天の下、上流のゲリラ豪雨を父は露とも知らなかった。よもやの鉄砲水が濁流となって、幼い子ら三人を一瞬にして飲み込んだのだ。
 みゆうの父は着の身着のまま飛び込んで、手に触れた最初の一人を岸に押し上げ、残る二人を救いに走って、そのまま帰らぬ人となった。幼児二人も犠牲となった。
 非番とは言え、警察官が付いていての事故である。たまたまにしろ、救われたのはその警察官の子どもだけ。自身も犠牲となったのだが、警察官の妻に対する世間の風は厳しかった。
「てめえの子だけとは、警官が呆れるぜえ」─の声充満。未亡人となったみゆうの母は働き口を探したが、どこに行っても玄関払い。結局のところ華奢な体をモンペに包み、男ばかりの土木工事で生計を立てた。
 その母が病に倒れた。みゆうが十歳のときである。みゆうは生活を支えるため、新聞配達、農家の手伝い、近所の赤ん坊の子守り…と、子どもにできることは何でもやった。しかし、十歳の少女の稼ぎには限界がある。どう頑張っても母の入院費用までは作れなかった。土壁の崩れ掛った六畳一間に寝たきりの母。人目の少ない夕暮れどき、「母を元気にして下さい」と神社で手を合わせ、お百度を踏むみゆうの姿を、近所の人は何度も見ている。
 手は合わせつつも、神にすがるだけではどうにもならないことを、少女のみゆうは知っていた。病人には、バランスのよい栄養を与えること。だからみゆうは、たんぼのイナゴを獲り、小川のザリガニを獲り、フナを獲り、タニシと思える貝も拾った。フキノトウやコゴミなどの春の幸、サルナシや木イチゴなど秋の幸。どれもこれも食卓に乗せた。
 問題は野菜だ。栄養価の高い野菜が欲しいのに、目の前の青々とした野菜畑は、どれも他人のものばかり。
 欲求を抑えきれなくなったみゆうは、ある日、畑からはみ出していた小さなカボチャを、一つこっそりもぎ盗った。母には「買った」とうそをついた。
「こんなにおいしいものをすまないねえ」と言いながら、母は一切れ二切れ食べてくれた。じぶんでは何もできない歯がゆさか、わが子に対するすまなさか、母の目からは光るものがこぼれて落ちた。
(お母さん、あんなに喜んでくれた)
 みゆうはつぎの日、トマトも一つもぎ盗った。母は、これも目を赤くして食べた。うれしかった。みゆうは、栄養価の高いものを、もっともっと食べさせたいと思った。だから…。ホウレンソウやニンジンも、空がスズメ色になるのを待って盗った。
 食卓に乗る野菜の数々。
「何だかいろいろ出て来るけど、オオバコだとかヨモギだとか、土手の草でいいんだよ。あんたにこんなに働かせたんでは、死んだ父さんに申しわけが立たないじゃないか」
 母はそう言って、食べるたびに手ぬぐいを目に押し当てた。口にするものすべてが、娘の稼ぎによっていると思っていたのだ。夫は警察官。娘は、その人との間の子。まさかの盗みを疑うことを知らなかった。
 みゆうが十五歳のとき、その母が他界した。母を看取ったみゆうは、そのときはじめて、じぶんの盗みに身ぶるいした。
(わたし、野菜どろぼう!)
 金額の問題ではない。他人のものは他人のもの。それに手をつければどろぼうだ。このままでは「じぶんの娘は正しく生きている」と信じ切っていた母を裏切ったままになる。それでは母は成仏できない。母を成仏させるには、じぶんにやるべきことがある。それは過ちへの償い。
 みゆうは考えた。例えば、盗った事実を名乗り出て、畑の持ち主に謝罪する。確かに、それも一つの方法だ。しかし、そうしたからといって、じぶんが生み出してしまった不快さを、生涯の中から消し去ることはできない気がする。そもそも〝盗み〟という事実は、過去の中の永遠なのだ。
 であるなら…。みゆうは発想を変えることにした。過去を悔い、過去の過ちを消そうとするのではなく、(過去の過ちを、ここからの人生の糧にしよう)─と。具体的には、まず寝食を忘れて働くこと。着るもの、食べもの、住むところ、すべてにギリギリを押し通し、がむしゃらに働くこと。(続)