ブログ小説『木馬! そして…』1.

 ブログ小説『木馬! そして…』

 人は愛情なくして生きられない。自分が生きているということは、自分では思ったこともない人たちからの、陰での支えを受けているから─。……かねこたかし

1.女優の告白
 那須高原のハーブ園『ハーブランド那須』の四月の朝。
「あらまあ、きょうはまた格別ねえ」
 レモンバームティーのマグカップを手に、早朝のウッドデッキに立った幸子は、向かいの山に目を細めた。幸子がこの地に来たのは十歳のときだ。すでに五十四年の歳月が流れている。
 目前に横たわるのは、茶臼岳を主峰とする那須連山。きのうも見たし、あしたもきっと見るだろう。見る角度も変わりはしない。それなのに幸子は、この景色に飽きることがなかった。なぜならば、山々が日ごとに素顔を変えてくれるからだ。
 今朝の素顔もすばらしい。一夜のうちに連山が、わが家に近づいたかと見まごうばかりに、くっきりとした稜線を見せている。
 幸子は、ガーデン・チェアーに腰を沈めた。足を組んでマグカップを口へと運ぶ。湯気と香りが早朝の鼻づらでゆらぐ。
〝ゴクリ〟と喉を小さく鳴らした幸子は、いつものように、山の一つ一つに目を置いた。
(黒尾谷岳のうぐいす色が、いよいよ浮き立ち出したわねえ)
(あら、きのうまで見えていた南月山の残り雪、すっかり消えちゃってる)
(茶臼の噴煙、流れていない。おだやかな一日となりそうね)
 日課のような山チェックが終ると、ふもとの景色に目を移す。
 朝食の支度だろう。客を迎えたらしいペンションの煙突から、ひとすじの煙が立ち昇っている。煙の先は真澄の世界。朝日を浴びたいびつの月が、その存在感を薄めている。
 幸子はまぶたを閉じた。こうすると、四季それぞれの声や音が耳に届く。春には、ウグイスの朝ぼらけの歌声や、サワサワと新葉が風にこすれる音。夏には、夜明け前から鳴き出したせっかち屋さんのヒグラシの声や、積み上げられた薪の中で、カチカチカチと虫たちが朝の食事をしている音。秋には、フィナーレにかかった虫たちの演奏会や、早起き農夫が薪を割る音。冬には、山を駆け下りながら吹き鳴らす風小僧の荒笛や、グオングオンと雪を飛ばす除雪車の音。
 暑くても寒くても、ここに座ったこの一瞬を、幸子は〝人生のもうけもの〟だと思っている。朝一番の空気に触れたその一瞬。山を愛でるその一瞬。小鳥の声や虫の音色が耳に届いたその一瞬。ハーブ・ティーが喉を通るその一瞬。心に触れる一瞬一瞬のすべてが、人生のもうけものだと思っている。いや、行き着くところ、「人生そのものがもうけもの」─との思いがあった。
 幸子の人生は、とうの昔に終わっていてもおかしくなかった。あの忌まわしい出来事を、記憶の外に追いやることはできそうにない。忘れたくても忘れられない。あの出来事がベッタリと心の壁に張り付けたまま、とうとう半世紀を過ごしてしまった。
「お母さん、はじまりますよ」
 長女のマリーが部屋の中から声を寄こした。
「あら、もうそんな時間?」
 幸子は腕時計に目を落としてから、「よいしょ」の掛け声を借りて立ち上がった。お気に入りの番組『わたしの宝物』がはじまるのだ。
 日曜日の朝六時から二十分間というこの番組を、幸子は毎週欠かさず見ている。番組には、毎回一人のゲストが想い入れの品を持って登場する。想い入れの品とは、その出演者にとっての宝物だ。人は誰でも一つや二つの宝物は持っている。例えば黄ばんだ一枚の写真だったり、母が大切にしていた四つ葉のクローバーのしおりだったり、あの人と歩いた白浜から拾い帰った小さな貝殻だったり、一枚の端切れだったりすることさえある。事情を知らない人が見たら(これが宝物?)と、首をひねるようなものが多い。
 しかし、宝物とは、元来がそういうものだと幸子は思っている。金銭では得ることのできないもの。より詳しく言うならば、いま手にある「そのもの」ではなく、「そのものに込められた情」といったようなもの。それこそが、宝物なのだと思っている。少なくとも、この番組に登場する宝物からは、出演者たちのそのような想いが感じ取れた。司会者の巧みな「聞き出し術」に負うところも多いだろうが、見ていて心に響くのだ。この番組から、幸子はたくさんの感動をもらっていた。
「あら、きょうのゲストは元町あかりじゃないですか。お母さん、この人のこと好きなんでしょう?」
「ええ。でも、女優としてというよりも、オードリー・ヘプバーン的というか、この人の愛に溢れた気持ちを応援したいのね」
ユニセフの親善大使も務めているし、親のない子や貧しい子に掛ける気持ちの強さといったら、お母さんと同じですものね」
「わたしなんかと一緒にしたら、元町さんがお気の毒よ」
「そんなことありませんよ。お母さんだって、わたしたち三人のみなし子を引き取って、立派に育てたんですもの。…あら? この言い方、変かしら。これだと、わたしまで立派ってことになっちゃうのかなあ?」
「ほほほ…。いいわ。お互いのために、立派ということにしておきましょうよ」
「もしかして、元町あかりにも、お母さんみたいな過去があったのかしら?」
「さあ、どうかしら」
 番組トークがはじまった。
  ・・・○・・・○・・・○・・・○・・・・ 
「さっそくですが、元町さんの宝物を見せていただけますか?」
「はい。これです」
「まあ、すてき。木彫りのロバちゃんですね」
「いえ、お馬ちゃんです」
「失礼しました。お馬ちゃんでした」
 元町あかりが手にしているのは、背丈が十センチほどで、手のひらに乗ってしまう小さな木馬だ。首には黄色いリボンが掛っている。
「見たところ、大層古いもののようですけど、これ、元町さんがお子さんだったころのものですか?」
「ええ。…というか、できたのは、もっと古いと思いますよ」
「もっと古い? すると、元町さんのために作られたとかのオモチャではないと…」 
「はい。たまたまわたくしのところに転がり込んだというか…。ごめんなさい。話が通らなくて」
「いえいえ、いいんです。この番組に登場する宝物は奥の深い品が多いんです。ひと口では説明できない品。それが想い入れの深い品ということでもありますから…」
「じつはわたくし、たまたまの偶然なんですけど、きょうが戸籍上の誕生日なんです」
「あら、それはおめでとうございます。でも、どうして戸籍上なんでしょう?」
「生まれた日を、はっきりとは特定できなかったということです」
「推定…ですか?」
「そうです。正しくは、きょう四月二十九日よりは何日か前に生まれていたらしいのですけれど、正確な日付の特定ができないということで、この日にしてしまったようです。ちょっとした事情がありましてね。とにかく、きょうで五十四歳になりました」
「えっ、五十四ですか? それはお若い。まだ三十代で通りますもの」
「うそはいけませんよ」
「では四十代」
「それならいいです」
 軽く二人で笑い合ったあと、元町あかりは、すぐに緩めた頬を引きしめた。(続)