ナナカマドの仲間たち 22.

22.それぞれの想い

◎里江の話。
『前略。きょうは時候のあいさつ抜きで本文に入ります。一刻も早く、感動の出会いを里江ちゃんに報告したいので─。ほんとうは、すぐにも電話でと考えましたが、それは思いとどまりました。電話よりも、手紙の方がよいと思ったからです。言葉で聞くよりも、静かに読んだ方がいい。そういうことって有るものですよね。
 さあ、ここからが本文です。地獄の責め苦に出会ったことで、始めて知った「真の友」の話ですよ。覚えています? 大島太洋さんに会ったんです! 8月16日のとんぼ沼のほとりでした』
 これ、光っちゃんからの速達でした。読み出したその瞬間から、光っちゃんの感動がペンに乗り移っているのが分かりました。
 一体、わたし何度読み返したことでしょう。あふれるもの、とめどもないものを、わたしはウッドデッキに吸わせていました。
 わたしのアトリエからは知床の海が見えます。その海の先に、海を見ようとしていた少年少女時代の七つの顔が一つずつ浮かびました。太洋、光っちゃん、武、吉松、源治、信之、常男。…ああ、八人目にしてしまってごめんなさい。わたしたちを見守り続けて下さったハッカケ先生の顔も…。
 みんな、想い出の箱の中のかけがえのない人たちです。笑い合っています。ふざけ合っています。叫び合っています。この人たちこそ、わたし・山村里江そのものを創り上げてくれた作者集団です。わたしという人間は、父母によって生み出されましたが、わたしに色づけをして、人格を決定づけてくれたのが、まぎれもなくこの人たちだったという意味です。ええ、今あるわたしの恩人たちです。
 光っちゃんからの手紙をたたんで眼を閉じたとき、もう一度、まぶたに浮かんだ顔がありました。それは、足のない太洋さん。少しも暗くありません。さわやかで、精かんで、黒牛みたいに光っていて…。ありがとう、太洋さん。
 みみずっ原、とんぼ沼、秘密基地。ああ、夕暮れの最後の光の中まで楽しみ合った遠い日々…。七つの星たち、ありがとう。

◎元新聞記者だった作家、武藤美月の話。
『十六日午後三時ごろ、長野県南佐久郡のとんぼ沼でイカダ遊びをしていた小学六年生の児童八人の乗るイカダが高波を受けて転覆。六人は自力で岸にたどりついたが、臼田常男君と大島太洋君の二人が波に飲まれ、臼田君が死亡、大島君も意識不明の重体となった』
 これ、半世紀前の信濃日日新報のスクラップ記事です。そんな古いものをなぜ持っているかって?
 捨てられないわけがあったんです。信濃日日新報初の女性記者となったわたしの初原稿だったものですから。
 じつはわたし、この初原稿で大変な汚点を残してしまいました。大島君の遭難原因を書き落してしまったのです。ただ溺れただけの記事にしてしまった大島君へのザンゲの気持ちと、記者としての戒めの意味もあって、長らく取材ノートに挟み込んでおいたものです。
 その大島君、ええ、大島太洋さんが六十年後のとんぼ沼に現れたと、当時のイカダ仲間の一人である室井吉松さんから知らせがありました。大島さんが現れたのは、臼田君の六十回目の命日となる、とんぼ沼のほとりだったそうです。
 新聞社を退職し、作家となって二十余年。そんなわたしですが、老いた中でのライフワークを見つけました。イカダの一件をドキュメントに残すことです。
 一つの出来事の真実と、その真実が当事者たちの心に残したもの。それらを、時空を行き来する形でつづってみようと考えています。悲劇の再現とか、そういうものではありません。全体を通して、さわやかな風を意識しています。
 表題は早々と決めました。その表題とは…『ナナカマドの仲間たち』。

◎ハッカケ先生の娘、高橋真夕の話。
『きみに以前話した大島太洋という児童のことを覚えているかね。その彼が現れたと、当時のイカダ仲間が知らせて来たよ。温厚篤実、虚心坦懐、質実剛健、泰然自若。それも泣かせてくれるじゃないか。六十年後のとんぼ沼に、それもあの日の時刻きっかりに、名誉の一本足で現れたんだとさ』
 これ、父が千曲の小学校時代の教え子について伝えて来た手紙です。
 父は自らが強く希望して、最後まで現場の教師を通しました。そんな父を、娘のわたしは尊敬しています。
 父は、『教師の師は生徒』という言葉をよく使いました。そして、その言葉の意味するところを述べるとき、必ず登場したのが大島太洋という児童の名でした。とんぼ沼に現れたのがその児童です。正しくは、私よりも年上の七十代の元児童です。父は、よほどうれしかったのでしょう。わざわざ手紙でそのことを、わたしに伝えて来たのですから。おそらく父は、その児童を天与の教材ほどに思っていたし、今もそのように思っているのでしょう。人間の地位や貧富に左右されない人として、父らしいなと思います。
 そうそう。父からの手紙には、もう一つ重要な、これこそがわたしに伝えたかった─と思える文章もありました。
『じつはねえ、十月半ばに、また太洋くんが来るんだよ。とんぼ沼のほとりには、六十年前、クラスの八人で埋めた想い出満載のカプセルがあるんだとさ。目印に植えたナナカマドの苗木が、大きく成長しているんだと。それを目当てに、みんなで掘り起こすというんだな。わたしもそこに招かれたの! もちろん、つばさをもらった仙人としては、とんぼ沼までひとっ飛びさ。事後報告を楽しみにしていなさい』
 九十歳にしてこのはしゃぎぶり。おかしいですよね。
 ところで、父の教師時代の愛称は「ハッカケ」でした。そして、その愛称を父に贈ったのは、じつは太洋さんのクラスのみなさんだったんです。児童から愛称をもらえる教師は幸せです。父はこの愛称を大層気に入って、それを損なうような入れ歯は、とうとうしないままでした。太洋さんだけでなく、あのクラス全体が大好きってことでしょうね。
 十月下旬には来るであろう父からの手紙を、わたし、楽しみにしているんです。

◎常男の妹、臼田富子の話。
『前略。じつは、一度受話器を手にしたのですが、受け止め方があなたとわたしとでは少し違うかも…と思ったので、あえて手紙に切り替えました。今から書くこと、正直に言うと、わたしとしては感動ものです。あなたの受け止め方はどうでしょうね? 憶えていますか? 大島太洋という名前。会ったんです。8月16日のとんぼ沼のほとりでですよ』
 これ、小学校や女子高で二年先輩だった唐沢光子さん…というより、この場合は、常男兄さんの同級生だった小坂光子さんと言うべきでしょうね。その光子さんからの手紙です。大島太洋さんのこと、もちろんわたし、憶えています。と言うより、忘れてはならない名前だと思っています。
 事故があった当時は誤解をしていました。取りみだした中での父母の誤解に、わたしも乗ってしまったのです。
 事故当時のもようを光子さんから根ほり葉ほり聞いたのは、女子高に進んでからのことでした。真実は、とんでもない誤解でした。鈍器で打ちつけられたほどの衝撃でした。ご自身の力が尽きるまで、兄を救い続けて下さった太洋さん。いわれもなく村を追われた太洋さん。どこにおいでになったのか、とうとう謝ることもできないままの日々でした。
 その太洋さんが、六十年という時空を超えた兄の沼に、ご自身わざわざ足を運んで下さったなんて…。
 イカダが無事であったなら、兄は、太洋さんやお仲間の人たちと、この大きな海を見渡すことができたでしょう。わたしが今立っているのは、新潟の弥彦山を背にした丘。眼下には、兄たちがイカダで行き着きたかった終着点の海が広がっています。光子さんの手紙を手にして、立ち尽くすばかりのわたし。体が自然とふるえています。
 光子さん、私も太洋さんから、有り余る感動を頂きました。日本海の大きな海面に、常男兄さんの満面の笑みが浮かんでいます。太洋さん、光子さん、そしてお仲間のみなさん、ほんとうに、ありがとうございました。
 ああ、兄の声が聞こえてきました。
  雄々しくて
  広くて丸くて穏やかで
  兄つぶやけり「太洋の海」

◎井出信之の話。
 ぼくは七十歳で社長の座を後進に譲った。退任にあたっては、その後に用意されたすべての要職を辞退した。ハッキリとした信念というほどのものではなかったが、うん、自分の人生に少しの疑問を感じたものでね。(自分は大学を出てから、一体何を目指して来たのだろう?)ってね。原発は、人々を豊かにするためには必要なものだと考えていた。リニアモーターは、より速く、より繁栄をもたらすものだと思っていた。おおよそにおいてはまちがいない。(でも、それを追求するだけでよかったのだろうか?)ってね。人間は高層ビルを造り、飛行機も造った。その飛行機に人間を乗せたまま、たくさんの人間が働く高層ビルに突っ込んだのも人間だ。自分たちで造った原発を大震災にさらし、人々から家や土地を奪ったのも人間。(あれもこれも、たまたまのことなのかな?)ってね。まあ、言ってみれば〝漠然とした思い〟だったんだ。
 ところが、六十年ぶりの大島太洋との再会が、その漠然を明瞭化させた。それはね、人間は、他の動物たちと同じように自然の中で自然と生まれ、やがて自然に還って行く。うん、そういう意味で、ぼくらは自然の申し子なんだよね。…であるなら、ぼくらは神が創ってくれたときの子どもの心を、将来にわたり持ち続けなくてはいけないのではないか。むしろ、そうあるべきなんだ─とね。
 かつてのぼくらは、自然のなかで、あんなに楽しく遊べたんだが、それは誰でもが持つ人生の中での一つの通過点。麻疹のようなものだと思っていた。ところがね、再会した太洋はね、うん、今もあいつは、自然の中で楽しんでいたんだよなあ。今もあいつは、むかしのままに豊かなんだよなあ。気づかされたんだ。人間ってえのはねえ、たぶん、あんなふうに生きるべきなんだ─とね。
 六十年廻ったことを還暦と言う。そこでぼくは、還暦の起点をあの小学六年時と考えてみた。六年当時が起点なら、ぼくの還暦は今ってわけだ。うん、ようやくあの頃に戻れたってこと。まあ、そんな気持ちってことなんだがね。
 ヤレめでたし。晴れた美空を舞うひばりのような心境だね。太洋を超えられなかったことだけが、ちょっぴり不満ではあるけれど…うん、まあ、それは…いいかあ。