ナナカマドの仲間たち 21.

21.八つの星を一堂に

 上空を、大きな鳥がゆったりと舞う。尾が台形で、羽の先に白い模様が見える。トンビのようだ。
「ゆったりと、おだやかな舞いだねえ。うん、あれが生きてるものの舞いなんだなあ」
 人生のほとんどを企業人として走り続けた信之の、どこか反省めいて聞こえる言葉だ。
「苦労がないようでも、あれはあれで、考えるところがあるんだろうな」
 武の言葉も、どこか自らをダブらせている感じがする。
 トンビは大きく旋回してから、八メートルほどもあるナナカマドの木のてっぺんに止まった。
「あれだなあ」と太洋がつぶやいた。
「えっ、何が?」
「大きく育ったもんだ」
「あのトンビを知っているのかい?」と、武がふしぎそうに聞いた。
「ナナカマドだよ」
「ああ、ナナカマドの話かい」
「あのときのだろう?」
「そうだったわね」と光子が答えた。
「そうなんだ。あのときのなんだ」とわたしも答えた。
「おいおい二人とも、ずいぶん無愛想じゃないか。あの木は、勝手にあそこに立っているんじゃないだろう?」
「そうだったわよね」
 それについては、わたしたち四人だって忘れてはいない。
「あいにく三十年後の八月は、遠い沖にいたもんで、気になりつつも失敬したが、あんたたちの反応からすると、掘らなかったということかい?」
「そうなんだ」
「なぜ?」
「なぜってねえ…」と、四人とも口が重たい。
 わたしたちは、三十年後の約束を忘れていたわけではない。むしろ逆で、忘れようとしていたのだ。掘り起こすはずだった三十年後とは、昭和59年である。その年には『かい人21面相』のグリコ森永事件があった。ロサンゼルスオリンピックは、確か常男の命日となる日の数日前に閉幕した。そんなことまで憶えているのは、あの一件が忘れられない証しである。
 あれは、将来の自分たちに向けた手紙を書こうという企画だった。自分たちの貴重な体験、想い出話、将来への夢をつづっておけば、生涯の宝ものに育つだろう。そんな発想からの企画だった。
 書き上げたものは消し壺に入れ、とんぼ沼のほとりに埋めた。三十年後に集結し、みんなで掘り起こそうとの約束だった。
 今ながめているナナカマドは、そのときに目印として植えたもの。想い出となる数々を埋めた直後は「早く三十年経てばいいのに」と、みんなで大きな夢を見ていた。
 ところが数日後、あのいまわしい事故が起こった。常男がこの沼に没したのだ。それがもとで、太洋は村を追われた。わたしたちはどんなに悲しんだことだろう。それからのわたしたち六人は、とんぼ沼で遊ぶどころか、沼を見ることもしなかった。事故のことも、カプセルのことも、目印としてのナナカマドのことも、すべてを忘れ去ってしまいたかった。
「気が重かったんだよ。常男にもあんたにも、わびてすまされることではなかったからね」
「わびる? ふ〜ん、とんだとばっちりだったなあ、あのナナカマドは」
 太洋はふたたびナナカマドに目を移した。
「年々りっぱなナナカマドなのに…」
「年々?」
「いや、六十年の風雪にも耐えてってことさ」
「そうだなあ」
 わたしたち四人も、今さらながらの気持ちでながめた。
「あれ、常ちゃんの山にあったのよね」
「そうそう。あの日の朝、常男が苗を掘り起こして来たんだよな。消し壺は、確かおまえが家から持って来たんだ」
「そんなことまで、あなた、よく覚えていたわねえ」
「何言ってるの。タケちゃんは、光っちゃんのことなら何から何までだよ」
 わたしの言葉に、太洋も武も苦笑した。
「しかし…」と、わたしは真顔になって言った。
「常男は沼の底から、毎日、自分のナナカマドを見ていたことになる」
「もしかして、あいつ、三十年経ったとき、どうして掘らないんだろうと思っていたんじゃないだろうか?」と武。
「そうね。そういう考え方もあるわよね。だとすると、今からだって常ちゃん、掘って欲しいと思っているかもよ」
 光子のこの言葉は、わたしの胸をドーンと突いた。
(間違っていた!)─とわたしは思った。カプセルに対する長年の考えは、まことにおろかなものだったのだ。
「掘ってみる?」と光子が言った。
「消し壺は沈黙の中で眠っている。目覚めさせてやれば、うん、語り出すだろう。ぼくらのわらべ時代の物語をね。常男も聴きたがっている。うん、どうやらぼくらは、常男を三十年間も待たせてしまっているようだね」
 信之の言う通りだ。
「トータルとして六十年。まだあるかな?」
「あるだろうね」と、わたしは期待を込めて言った。「だってそうだろう。わたしらが掘らない限り、あんなところにあんなものが埋まっているとは、だれも知らないことだからね」
「だったら掘ろうよ」
「いいわよ」と光子が応じた。「ただし、きょうじゃないわね」
「けど光子、あれを掘り出すぐらい、場所さえ確定させれば簡単だろう」
「そうじゃなくて…ねっ」と、光子は言葉に含みを持たせた。
「みんなに声をかけるのよ。里江ちゃんと源ちゃんにもね。来る来ないは勝手だけど、みんなで掘ろうと決めたことなんだから、掘るなら連絡してからが礼儀というものでしょう。常ちゃんだって、七人全員に来て欲しいって思っているでしょうからね」
「そりゃそうだな」と、武や信之も納得した。
「思うんだけど、もし七人がそろうようなら…」
「そろうようなら?」
 自然が光子に集中した。
「掘ったあとのことだけど、お宝を宴会場に持ち込んで、六十年後の大集会ってどうかしらね? ハッカケ先生もお呼びして、盛大に常ちゃんを偲ぶ会にしちゃうって…」
「いいねえ」
「でも、ハッカケ先生はご高齢だから無理かしら?」
「大丈夫。この間会った感じでは、頭も口も足も、わたしらと変わらない。歯だけはあのままで、今もシューシューしているけどね」
「だったらゴーだ。ナナカマドの仲間たち。八つの星の再集結。ノブさん、あんたも来るよな」
「何を置いても『佐久之花』…いや、宝の壺だな。うん」
「問題は海の男だけど、太洋さん、来られる?」
「日時が決まったら教えてもらおうか」
「分かったわ。どこに連絡すればいい? そうね。スマホのアドレスとかは?」
「ガラケイならある。でも、アドレスは覚えていないなあ」
「どこかに書いてあるでしょう。手帳とか…」
「手帳は置いて来ちゃったなあ」
「ありそうには思えないけど、名刺って、持ってない?」
「ああ、名刺ねえ。え〜と、名刺、名刺」
 太洋が゛ショルダバッグをさぐり出した。
「えっ、あんたが名刺持ってるの?」
 信之が意外そうな顔で聞いた。わたしもだが、おそらく、だれもがそう思ったに違いない。年齢的にもそうだが、太洋という男に名刺が似合うとは思えない。持つこと自体が意外だった。
「訪問客からも講演先でも要求されるんでね。性に合わないとは解っていながら……ああ、あったあった。これこれ」
 名刺が光子の手に渡った。
「あら、上越海洋こども館って、何?」
「海を愛する子どもたちの遊び相手さ」
「へ〜え、そこの館長さんなんだ。どんなことなさってるの?」
「海に関することで、子どもが興味を持つことなら何でもやるよ。例えば、イカダを作って遊ぶこともね」
「それって、むかしのままじゃない」
「足が無いから、やれることといったら、そんな程度さ」
「いや、あんたは足があっても無くても、むかしと同じだよ。すべてが似合っている。うん、あっぱれだな」
 信之のこの感想には、わたしたち全員がうなずいた。
「よし、八つの星の大結集企画は、これで決まりだ!」
「ではみんなへの連絡と会場決め、その他の段取り、わたしと主人に任せてもらっていいわね」
「ああ、よろしく頼むよ」
 思いがけない発展を見て、わたしはトシ甲斐もなく興奮した。壺の中に納めた手紙は、そのまま保存されているのだろうか? 無事だとしたら、自分は何と書いたのだろう? みんなは何を書いているのか? バッカケ先生を含めた『深山流艇八星号』の乗組員の大結集。これにも大興奮する。わたしの心は、指折り数える子どものようだ。
 ポォーッ ポォーッ。
「うん?」
 武がふり返った。
「汽笛かしら?」
 光子も音の正体を目で求めている。
「まあっ、あそこ!」
「おう、あれか! やあやあ、めずらしいのがやって来たなあ」
「ほんと、なつかしいわねえ」
 黒い物体─。SLだった。灰色のけむりを吐きながらやって来る。
「SLとはまた何年ぶりだい? いや、何十年ぶりかなあ」
「うちの園児たちを乗せたことがあったじゃない。ほら、源ちゃんが招待してくれて。あれがここでの見おさめだった気がするけど」
「そうか、あれが最後か。だったら、もう十五年にはなるなあ」
「来た、来た、来た」
 ポォーッ! ポォーッ! ポォーッ!
 沼にかかったSLが、汽笛を三度高らかに鳴らした。そして、その汽笛が合図だったかのように、機関室から沼辺に花束が投げられた。反射的に機関士を見たわたしに、機関士が軽く片手を上げた。
「あっ! 源ちゃんだ! 源治だよ、ほら!」 
 SLが、また汽笛を一回鳴らした。SLの車体には横断幕が張られている。『夏休み特別企画。SLで信濃路へGOゴー!』。特別企画で招かれたと思える子どもたちが、窓から盛んに手をふっている。
わたしたちも手をふり返した。
 シュッシュッシュッシュッ…。
 SLが遠ざかって行く。
 わたしは源治の心を想った。
「源ちゃん、この路線で蒸気機関車を走らせた最後の運転士だったそうだから、会社が呼んでくれたんだろう。記念だよね。うれしいだろうなあ」
「SLもだけど、源ちゃん、ここをディーゼルで何百何千と往復したのよね。あの花束、常ちゃんへの献花だろうけど、人生を通した仕事の締めくくりとしての意味も込めているのと違う?」
「まあ、その思いはあるだろうな」
 武がうなずきながらそう返した。
 SLは峠に消えた。
 光子が改まった顔で言った。
「太洋さん。あなた、常ちゃんのためにここに来たみたいだけど、まさか彼の死を、自分のせいだなんて思ってやしないわよね」
「…」
「あなたは、真っ先に泳ぎ出したわたしたちとはちがうの。あなたは何ひとつ悪くない。そのあなたがくやんだら、死んだ常ちゃんばかりか、源ちゃんだって浮かばれないわよ。あなたはねえ、あなたは、もっと自分を大事にしなきゃあ」
「…」
 太洋からの返事はなかった。光子にしても、返事を求めているわけではない。太洋とは、そういう人であり、そこに太洋の魅力があった。
 わたしは、源治が投げた花束を拾い上げた。花は、そのむかし、常男が好きだと言ったキバナコスモス。
「あいつは、このオレンジの花色が好きだったんだ」
ジャイアンツ色とか言っていたなあ」
「カラーテレビも無い時代から、あの子、ジャイアンツ・カラーを知っていたのね」
「早過ぎるんだよね。何から何まで急いでしまった」
 わたしは沼ギリギリのふちに立った。
「なあ常男、そこから青い空が見えるだろう。空は一面の画用紙だ。その画用紙に描かれたのは、おまえの好きなキバナコスモス。源ちゃんがね、おまえのために用意したんだよ。おまえへのプレゼントさ。ほ〜ら、見えるだろう?」
 わたしは花束を空高くにかかげて見せた。 
「きれいだろう? 今浮かべるから受け取ってくれよな」
 わたしは花束をとんぼ沼の水にそっと浮かせた。
 波ほどもない小さな波が、小船のようにその花束をゆらしている。
 花束の浮かぶさまをしみじみ見てから、光子が沼に向かって言った。
「常ちゃん、あと一つ、大きなプレゼントがあるわよ。ほら、わたしのうしろ。見えるでしょう?」
 光子はふり返り、右手で太洋の方向に伸ばした。
「太洋さんよ。太洋さんが、あなたのために来てくれたのよ」
 太洋が、小さく沼にうなずいて見せた。
 わたしと武はほほをゆるめた。信之は、沼の常男に軽めの敬礼をして見せた。