ナナカマドの仲間たち 20.

20.ナマリ色の足

 どこから来たかと問う光子に、男は、ふり向きもせずポツリと答えた。
「海の方から」
 どこか無礼な感じだが、光子には、それを気にする様子が見えない。
「こちらは初めてですか?」
「いや」
 光子が推理探偵のような言い方をした。
「むかし、ここにいたことがある。…図星ですよね」
 男はまだ沼を見たまま「まあね」と答えた。
「でしょうね。わたし、あなたを知ってますもの」
 男が、初めて光子を見た。
「おれもあんたを知っている」
 武が(なぜだ?)─という顔をわたしに向けた。わたしは、首を小さく左右にふった。
 光子が落ち着いた声で「あなたの名は…」と言いかけたとき、男が光子の言葉をさえぎった。
「あんたはミッコ。そっちは、財界誌などで時たま見ていた社長さん。そのうしろが武と吉松」
 武もギョッとしたけれど、それ以上に驚いたのはわたしの方だ。なぜなら、武夫婦に関係した人だと思っていた。また信之なら、確かに財界誌やテレビの経済ニュースなどに時々登場していたから、顔を知られていてもふしぎではない。でもまさか、男の口からわたしの名まで飛び出そうとは思わなかった。
「あ〜もうやだ!」と光子が、ダダをこねる少女のような言い方をした。
「先に言い出したのはわたしなのよ。どうしておいしいところを持って行くの! 無愛想な顔しといて、トンビのようにさらうんだから!」
 この口の利き方。わけが分からず、武は口をパクつかせ、わたしはあっけに取られている。
 男がサングラスを外した。黒い顔から白い歯がこぼれた。
 光子が手を差し伸べる。男も、それに応えて握手を交わす。亭主の武はおだやかではない。「えっ? どっ、どなただい?」としどろもどろで、二人をさかんに見比べている。
「人生とは味なもんでね、欲っしていれば、いつかは納まるところに落してくれる。ぼくはね、こういうこともあろうかと、ひそかに思っていたんだよ、うん」
 そう言いながら信之も、手を差し伸べて握手を交わした。
「あ〜っ」とわたしは叫んだ。信之が口にした「三点セット」が、遅まきながら頭の中でつながったのだ。
「何だ何だ! そうだったのか!」
 男がわたしにうなずき返した。
「や〜あ、びっくりしたなあ」
 そう言いつつ、わたしも男と握手を交わした。
「えっ、だれだれ?」
 一人カヤの外に置かれた武が、あせっている。
「ねえ光子、おれも知っているの? この人」
「もちろんよ」
「はて、どこで…」
 光子は、あせりまくる亭主を楽しんでいる。
「ノブさんがさっき言ったじゃない。きょうが8月16日って」
「8月16日? …えっ、えーっ!」
 ピンポ〜ンの感触。武は一気に和らいだ。
「うん、そうだ! こりゃこりゃ失礼! いや〜あ、あっはっはっは…」
 みんな笑った。半世紀どころか六十年ぶりの対面だった。
 武が握手をすませると、それを待っていたかのように光子が言った。
「あなた、あれからどうなさったの? また海へ戻ったの?」
「まあね」と太洋は答えた。
「夢が叶って、ほんもの船長さんになれましたか?」とわたしはたずねた。
「どうにかね」
 太洋は、村を出てから、だれにも手紙を寄こさなかった。だから、かれがどこに行ったのか、その行き先をだれも知らない。なぜ住所を知らせて来なかったのか、その理由も分からない。ただ、想像のつかないことではない。何となくだが、それがかれ流の、あの一件に対する心の表明だった気がした。しかし、それはそれ。太洋と海を切り離しては考えられない。海にいるに決まっていると、わたしら仲間はそう思っていた。
「今も船長やっているんかね?」と武が聞いた。
「いや」
「そりゃまあ、七十の坂を二歩ほど越えたんだからなあ。でも、あんたは超人的だし、今見る顔も精悍だよ。船長がまだ務まるんとちがうかね。いつ船を降りたんかね?」
「もう二十年も前になる」
「五十そこそこで? 変だなあ。そうなる理由があったね?」
 太洋は首すじをポンポンとたたいた。(困ったことを聞かれちゃった)─という仕草である。
「陸が恋しくなったとかって?」
 わたしは助け舟のつもりで言ったが、太洋は「いや」とそれを軽く流した。
「だったらなぜ?」
 武が、じれている。
「人間、すじ書き通りにはいかないもんさ」
 そう言ってから、太洋は腰を下ろした。左ひざを地面に置き、右ひざを立て、それから両手で右足のズボンをつまむと、ゆっくりと、そのすそをたくし上げた。
 ズボンから、足のスネが現れた。
「あっ」と、武が小さくうめいた。わたしたちも息を飲んだ。すそからのぞいたその足は、にぶいナマリの色をしていた。
「ごらんの通りでね。船乗り失格さ」
 この光景を文字にすると悲壮感がただよいそうだが、太洋の場合は違っていた。それが一つの現実で、太洋はその現実を、ただ淡々と説明したにすぎないのだ。
「何でまた…」と武。
 太洋は、ズボンのすそを下ろしながら言った。
「サメだよ。南の海にはウヨウヨいる」
 信之が納得顔でうなずいた。
「船から落ちたんだね。いや、あなたじゃない。うん。思うに、落ちたのは船乗りの仲間だなあ」
「見習いの若いのがね」
「その若い人は助かったの?」と光子が聞いた。
「常男の二の舞いにはしなくてすんだ」
「あなたの足一本と引き換えに?」
「幸運だった」
「命を愛するってことは、足までちぎって上げること? ばかな人ね、あなたって。少しも変わっちゃいないんですもの」
 交わされている言葉の中味の、何と重いことだろう。わたしは胸を熱くしながら、つい先日のことを話した。
「そこだな。そこが太洋さんなんですよ。わたしらと太洋さんとが一緒だったのは、長い人生の中のほんのちょっぴりでしかない。六年生という中の一年間にも満たない間だったんだからねえ。でもね、あなたはわたしらの中で、今も輝き続けている。この間ね、卒寿を迎えたハッカケ先生をお訪ねしたですよ。そうしたらね、先生、真っ先に話題にしたのがあなたのことだった。『教員人生の中で、一番印象に残るやつだった』ってね。あなたの勇気というか気性というか、『おもちれえ、おもちれえ』って、とにかくたたえていたですよ。『教材だなあ』とも言っていた。だれもが忘れていない人。それが、あなたなんですよ」
 武が柄でもない顔で、「おれ、あんたが出て行ったあのころ、あんたの夢ばかり見てたよ」と言った。
「わたしもさ。あなたを送ったわたしらみんな同じだよ。だよねえ光っちゃん、社長だってそうだよね」
 少なくともわたしたち六人は、太洋という少年を、心の中の宝箱に納めている─と、わたし自身は思っている。沼で眠る常男だって同じだろう。もしかすると、常男こそ─かも知れない。
 六十年を経ての再会だからと口にした敬語が、心の動きをじゃましている。だからわたしは照れながら言った。
「ねえ、その〜う、太洋…って、呼んでもいいかなあ?」
 太洋は、(何をいまさら)という顔をした。「そう願いたいね。足がなくても、太洋は太洋なんだから」
「じゃあ、そう呼ばせてもらうよ」
 この瞬間、半世紀以上の時空が飛んだ。
「照れるけれどね。太洋、あたしら、ずっとあんたに会いたかった。手紙一本寄こさなかったあんたにね。中でもね、一番会いたがってたやつ、だれだと思う? 源治だよ。あいつ、だれよりも悔やんでいた。あのころ、あんたが村を出て行ってから、ずっとふさぎ込んでいた。『常男を見殺しにしたのはおれだ。太洋を追い出したのはおれだ』と言ってね。あいつ、あんたに謝りたいんだよ。残念だよ。きょうは仕事で来られなくてね。だから源治の気持ち、あたしからあんたに伝えておく。源治をね、源治を許してやって欲しいんだよ」
 太洋の答えは一言だった。
「見当ちがいだよ」
 この〝あっさりさ〟こそが太洋なのだ。わたしはここでもジ〜ンと来ている。
「無感動を装ってもダメ。あなたのふところには、だれよりもたくさんの想い出が仕舞ってある大きな引き出しがあるってこと、わたし、知ってるもの」と光子が言った。光子は光子自身、このせりふの中で無感動を装っているが、大いなる感動を、その目がしっかりと伝えていた。
「よかったよ。きょう会えて。源治に伝えるよ。悔いを残さずにすむもの」
「ロウソクは、身を減らして人を照らす…か。うん、もののけじめをね、またあんたに見せてもらったよ」
 信之のこの言葉を、太洋だけが聞き流している。