ナナカマドの仲間たち 19.

19.とんぼ沼のほとり

 あれから六十年が経った平成26年8月16日。
 あの日の荒くれがウソのよう。とんぼ沼はおだやかに、青い空をその水面に映していた。
 武、光子、信之、わたしの四人は、とんぼ沼のほとりに立った。十年目となる節目ごとに、仕事の都合の許す者だけ集まって、ここに立つことにしている。今年は源治と里江がいない。信之の参加は三十年ぶり、二回目のことである。
 ここに立ったあとは場所を移し、恒例の『常男をしのぶ会』が待っている。会では、とんぼ沼の話に始まり、そこから話題は八方に飛ぶ。イワツバメの巣をのぞきに行って、危うくガケから落ちそうになった里江のこと。お化け屋敷の探検で、おしっこをちびった常男のこと。転入生の太洋をギャフンと言わせたくて企んだヘビ獲り競争だったのに、逆にギャフンと言わされたのは自分たちだったこと。
 あれやこれやの想い出話は、テープレコーダーを回すに等しいことなのに、集うたびに繰り返される。何度繰り返しても新鮮に笑えてしまうのだから、「一生ものの会だ」と三十年前、信之が絶賛した気持ちが分かる。
 武と光子は夫婦である。武の想いに光子が応える形でのカップル誕生だったが、三年後には早くも結婚五十年。晴れて金婚式を迎えるのだと言う。わたしたちは当初「うまくいくのだろうか?」と危ぶんだ。どっちへ向かうも親次第のカルガモ母子みたいな関係にあったからだ。ところが男女の仲というものは解らない。適当に心配をかけ合うバランスが絶妙だったのだろうか。ことのほか「いい夫婦」を作り上げてしまった。
 きょう欠席の源治は、機関車の運転士一筋の道を歩んだ。定年後の今は、趣味の大工仕事を楽しんでいる。松原湖畔に手作り別荘を建てているのだ。ひとりでコツコツ造り始めて三年になるが、「なぁ〜に、あと五年で何とかなるよ」と、むかしの気性がウソみたいな気の長いことを言っている。
 その源治から、きのう武夫婦に連絡が入った。「あしたは、すまんがおれ欠席する。元の会社のイベントで、機関車に乗れることになったんでね」と。機関士一筋だった身にとって、それは懐かしいことだろう。
 ハウス菜園を営むわたしは、すでに仕事のすべてを娘夫婦に任せているし、武夫婦が運営している幼稚園も、来年には光子園長が、その座を息子にゆずることにしているそうだ。武理事長の肩書きは残るが、実質運営は息子夫婦に移る。
 信之は、さすがにわれらが級長さん。まさかの力を見せつけて、とうとう一流会社の社長の座にまで昇りつめた。その座も二年前、古希(七十歳)を区切りに後進にゆずり、今は悠々自適の生活らしい。「常男をしのぶ会を、うん、年に二回、夏冬やることにしてもいいよ」と、本心とも冗談ともつかないことを言って来ている。相変わらずの「うん、うん」は、どうやら一生のものらしい。
 画家となって北海道の知床で暮らす里江からは、「常ちゃんの六十周年は、個展と重なっちゃったの。個展がすんだらお墓参りに行くつもりだから、そのときにでも、光っちゃんたちに会えたらいいな」との連絡があった。
 お互い、七十歳の山を越えて早二年。人生をふり返りたくなる季節である。だれの心の中にもモクモクと湧くのは、あの「八つの星時代」への郷愁らしい。
 輝いていた八つの星。そのうちの一つは、光ることをやめてしまった。もう一つは流れ星。流れて来たと思ったら、流れてどこかへ消えたままだ。

 さて、とんぼ沼のほとりに立つわたしたち。時計を見ると午後三時。六十年前の、あの日、あのときの時刻になった。
 武、光子、信之、わたしの四人は、沼に向かって手を合わせた。
 目を閉じると、さまざまなことがよみがえる。八人がそろっていたという意味では、昭和29年4月から8月16日のあの時まで。そう。半年にも満たない期間だった。だが、そのわずかな期間の中には、汲んでも汲んでも汲み切れない想い出の数々がある。辛かったのは、突然襲って来た山嵐のこと。切ないのは、欠けてしまった星たちのこと。
 とんぼ沼の底で、常男は今、何を思っているのだろう? 流れ星となってここから消えたあいつは、いまどこで、何を照らしているのだろう?
 祈りを解いてわたしは言った。
「歳月人を待たず…か。早いもんだなあ」
「ほんとに」と光子が、まなざしを湖面に残したままうなずいた。
「人はだれもが、一冊の本みたいなものなのよね。どんな本でも、頁をめくれば、その本でしか知り得ないこと、その本だけのことが載っているんですもの。でもねえ…」
 武はむかしから、光子の心を読むことには長けている。
「なるほどな。おまえの言いたいこと、分かるよ。常男はその本を完成させることができなかった。完成どころか、第一章の書き出しのところで止まってしまった…とね。そうなんだよなあ。あいつはあいつの本に、残念ながら、たくさんの想い出を書き連ねることができなかったんだよなあ」
「さすがは夫婦。ツーカーだね。でもさあ、夢を見るのが子ども。夢を食いつぶすのが大人。そういう感じって、あるよね。だからさあ、常男はバラ色の一頁目だけを持って旅立った。それは美しいグラビアページさ。それはそれでいいんじゃないの? それでいいんだよ。ねっ、そう思ってやりたいなあ」とわたしは言った。
「そうね。あたしたちの最終章なんて、どうなるか分からないものね。この人のここからだってどうなるか。早く逝っておけばよかったってことにならないとも限らないしね」
「何だよ、光子。自分のことだけ棚に上げて」
「あっはっはっ…」と信之が笑った。それが光子の本音ではないから笑えるのだ。
「相変わらずだなあ、きみらは。でも、うん、よく分かる。夫婦にとっての相手とは、第二の自分なんだな。そしてそれは、うん、第一の自分の育ての親でもあるんだな」
「おれが光子かい?」
「いやよ、わたし」
「あっはっはっは…」
 笑いのおさまった沼は静かだった。平和な沼の上を、安心しきったとんぼが、右へ左へ遊んでいる。ムギワラトンボ、シオカラトンボ、オオシオカラはコバルト色だ。真っ赤なナツアカネは、お地蔵さまの頭で翅休めをしている。そのむかし、常男の両親が安置したお地蔵さまだ。
「ほう。もうご両親もいないだろうに、供えものがある。だれだろうね」と信之が言った。
「富子さんかなあ、ほら、常男の妹のさあ」
「でもあの人、今は新潟のはずよ。あっちの人と一緒になったはずだから」
「いや、新潟なら、その妹さんだろう。ほら、笹団子と缶ビールが一つ。笹団子は新潟の名産だし、こっちは地ビールで、ほら、エチゴビールと書いてある」
「わざわざ常男のために来たってことかい?」
「かもね。きょうが兄の命日って知っているわけだから」
「ああ、そう言えば…」と、わたしは十年前を想い出した。
「タケちゃん、光っちゃん、憶えていないか? 十年前の命日のことだよ。あの時も笹団子があった気がしてきたんだ。ビールの銘柄までは分からないが、缶ビールだか缶ジュースだかもあった。そうだな、笹団子は富子さんだな。彼女も命日には、ここまで足を運んでいるってことだ」
「かもね。先祖伝来のお墓もここにあるんだし、当然と言えば当然かあ。常ちゃんの命日も、お盆続きの十六日なんだから、お墓参りの足でここに寄れるんですもんね」
「そんな後々のことまで考えて自分の命日を決めたわけじゃないだろうけど、お盆続きは妹孝行ってことになる。けどしかし、常男にビールというのが少々こっけいではあるなあ、うん」
「だからって、不二家のミルキーみたいなもんを、生きていれば七十二歳となるじいさまの墓に供えるってぇ〜のもなあ」
「気持ちなんだから、常男にはミルキーだっていいさ。うん、ぼくはごめんだがね、ミルキーは。さ〜て、ぼくらもそろそろ引き上げよう。こっちにはコレが待っている」
 信之が、おちょこを口に運ぶまねをした。
「こっちに似合うものと言えば、うん、信州の銘酒『佐久之花』だな。常男には一生早いが」
「あんたが東京からわざわざ来る理由の一つがそれってことかい?」
「生きてる証しだな、うん」
 笑いながら歩き出した信之と武らに、わたしが待ったをかけた。
「ちょっと…」
「どうしたい」
「あれを見ろよ」
 わたしがアゴをしゃくった先に、サングラスの男がいた。青いジーパンにラフな白シャツ。着ているものは若づくりだが、髪の毛は、すき通るほどに白い。
 男は静かに沼を見ていた。
「あの男、朝方は学校の庭にいたんだよ」
「学校に?」
「うん。あたしらの小学校だよ。廃校になったまま崩れかかっている校舎を、一人でずっとながめていた。土地の者じゃないと思うが…」
 目を凝らした武も、「うん。この辺りのもんじゃないなあ」と言った。
 光子が、独りごとのようにつぶやいた。
「朝方は廃校の庭、今はとんぼ沼かあ」
「そしてきょうは8月16日。うん、三点セットがそろったなあ」と信之が続けた。
「どういう意味かね?」
 武の質問だったが、信之はニヤリとしただけで答えない。
 光子が言った。
「あなた、行くわよ」
「えっ、どこへ?」
「あの人のところへよ」
「あの男のところへ? おまえ、あの男、知ってるのか?」
「たぶんね」
「たぶん?」 
 武が複雑な顔をした。
「おいおい光っちゃん、いい歳して、タケちゃんをからかってない?」
 わたしが冷やかしを入れると、光子は信之を見て「ふふふ」とふくみ笑った。それから男に視線を送ると、ゆっくりと歩き出した。信之も当然のようにそれに続く。おいてきぼりにされたわたしと武も、ひとまず二人を追うことにした。
 光子は沼のふちをたどりながら、男の方へと向かって進む。二メートルほど間を開けて信之。さらに二メートルほど間を開けて、わたしと武がついて行く。そんなわたしたちに気づいているのかいないのか、男は、なおもその場にたたずんでいる。
 男に近づいた光子が、ゆったりとした口調で声をかけた。
「こんにちは」
 男は、目線を沼に置いたまま「やあ」と答えた。
「どちらからお越しですか?」