ナナカマドの仲間たち 18.

18.村のやつらのバカッタレーッ!

 昭和29年10月2日。太洋は一ヶ月半ぶりに退院した。
 その日の来るのを首を長くして待っていたのは、太洋であり、おれたちであり、太洋のお母さんだ。母親がわが子のケガの回復を待ちわびたのは当然だけど、やつのお母さんには、待ちわびたもう一つの理由があった。
「よそ者が村長の息子を殺した」
 そんなデマが、まことしやかに広まっていた。死者が出たのは事実だから、話に尾ヒレはつきやすい。わざわざつけるやつもいる。変な刑事もその一人だ。ハッカケからは言葉もなく逃げたのに、その後もチョロチョロ嗅ぎまわっていた。
 ハッカケは何度も常男の家を訪れて、常男の父ちゃんである村長さんの誤解を解こうと努力を重ねてくれた。だけどもせまい村社会。多少の理解は得られても、一人歩きを始めてしまった「うわさ話」を消し去ることはできなかった。
 悪いことには悪いことが重なるもの。太洋が退院する六日前の9月26日。日本を襲った台風十五号が青函連絡船の洞爺丸を沈没させた。死者・行方不明者千百五十五人は、タイタニック号を含む世界三大海難事故の一つとなった。水難の大惨事という点で、イカダの事故も合わせて語られるようになったのである。
 加えて…と言ってもいいだろうか。常男の両親が、とんぼ沼のほとりにお地蔵さまを安置したのは、そうした矢先のこと。気持ちは分かるがこのことも、うわさに向けた扇風機。ますます広く遠くにまで、あらぬうわさを吹き散らした。
 事故以来、ちょくちょく見かけるあの刑事は、じつは常男の遠い親せきだった。そうと知った太洋のお母さんは「仕方ないね」とポツリと言って、山での生活をあきらめた。自分はがまんできたとしても、息子の太洋をこの環境に置いてはおけない。そう思っての決断だった。
「それが親の気持ちというもんだよう」と、うちの母ちゃんは同情した。
 出て行く人と追い出す人が、待ち望んでいた太洋の退院。ふざけた話だと、おれたちイカダ仲間は、じたんだ踏んでくやしがった。
 大人の世界はむずかしい。ハッカケが、善意の力を最大限に尽くしてくれていたというのに─。ハッカケのお兄さんの警察署長さんも、あれこれ力になってくれていたというのに─。おれたちの父ちゃんや母ちゃんも、うんとがんばってくれたのに─。情けない。小さな村の非常識を、常識のワクに戻すことは、とうとう最後までできなかった。

 退院から一週間した10月9日。太洋とやつのお母さんは、半年前に歩いたばかりのこの道を、石で追われるように、いま、荷物を背負って歩いている。
 ここが太洋のお母さんの、そのおばあちゃんのふる里だったと知ったのは、太洋が退院したころだった。そのことは村の耳にも届いたが、おばあちゃんは、とっくのむかしに亡くなっている。だから空気は変わらなかった。秘密基地でのおれたちは、人の心を悲しく思った。
 おれたちは、最寄りの駅まで太洋とお母さんを見送った。道々、言いたいことが山ほどあった。だけど、あいつの顔を見てしまったら、言葉が一つも出て来ない。無言で駅までトロトロ歩いた。
 駅に着いてからも、おれたちは、まだ重くこうべをたれていた。
「バカヤロウめ。門出は楽しくやるもんだわ」と、無人駅の改札から、ひょっこり現れたのは…。
「ハッカケ先生!」と信之が叫んだ。
「まあ、先生さま」と、太洋のお母さんが腰をくの字に曲げておじぎをした。
「バーン!」と先生は、指拳銃を太洋に一発くれてから、お母さんに言った。
「お母さん、門出、門出。太洋はここで成長したんよ。この子はね、どこに行っても豊かな心の出世魚だわ。負けない、負けない。ここは一番、笑顔の別れだなあ」
 ハッカケってすごい。一瞬で駅の空気を変えてしまった。
「太洋」
「はい」
「おまえはおまえのままがいい。先生はいつだって、おまえのままのおまえが好きだ。また会えたらいいと思っている。ぜひ会いたいと思っている。今のまま、のびのびと成人したおまえにな。それまで楽しく、いいか、楽しく元気でやるんだぞ」
「はい。先生もハッカケのままお元気で」
「ハッカケのままかあ。こいつう」
 笑いをもらったおれたちは、太洋を囲んでしゃべり出した。おれたちをしゃべらせたのがハッカケなのに、ハッカケ自身は、そばで笑って見ているだけ。ただ一人、源治の口は重かった。
 ポーッと汽笛が遠くで鳴った。
「来ちゃった」と里っぺが言った。
 シュッシュッシュッシュと、蒸気機関車が入線して来た。
「何だよ」と、おれはおれ自身に文句をつけた。あんなにペラペラやっていたのに、急に目がしらのやつが熱くなりやがって。
「おまえ、泣いてる」と、武が自分の目をこすりながら、おれを笑った。
「おまえだって」と言ってやったが、それは、おれと武だけではなかった。
「じゃあな」
「手紙書けよ」
「着いたら、住所を知らせて来いよ」
「同窓会には絶対来るのよ」
 みんな、最後の言葉を連発させた。
 ミッコが太洋のおばさんに聞いた。
「今度の所は海ですか? それとも山?」
 おばさんは、笑ってうなずくだけだった。
「元気でな!」
「ねえ、春休みにはみんなで会おうよ」
 里っぺのこの言葉には、みんなが顔を明るくした。
(そうだよ! 絶対に会わなくちゃ!)─と、おれは熱く心で叫んだ。
 一人一人と握手を交わし、太洋は汽車のデッキに立った。
 ピッ、ポーッ!
 汽笛が上がると、汽車がゴトンと動き出した。
 ゴトン ゴトゴト ゴト シュッシュッシュッ…。
 おれたちは千切れるほどに手をふった。デッキの太洋も手をふり返した。
 シュッシュッシュッシュッ…。
 汽車が小さくなって行く。
 シュッシュッシュッシュッ…。
 豆となった太洋が消えた。もう見えない。
ケヤキ!」と、武が叫んで走り出した。
「そうだ!」
 おれたちも走り出した。村のどこからでも見える大きなケヤキが、駅前広場に立っている。おれたちは、そいつに飛びつき登り始めた。ミッコや里っぺも遅れはしない。ズックを飛ばしてスルスル登った。
「あそこだ!」と武が叫んだ。汽車は峠にかかっていた。
「あいつの汽車だ!」とおれは叫んだ。大きな枝の分かれ目には、だまったままの源治がいる。
 おれたちは、ありったけの声で叫んだ。それぞれが、それぞれの思いを一心に込めての叫びだった。
「太洋くーん! だめだよ、行っちゃあ! あんたのせいじゃないって言ったじゃないか!」
「おまえはもう、ここがおまえのふる里じゃねえか! 帰って来いよーっ!」
「太洋―っ! あんたは、あたしたちのリーダーじゃないか! どうすんのよ! あたしたちを!」
「常男だって望んでいるんだ! おまえがそばにいて欲しいって!」
「忘れるなよ、おれたちのこと! そしていつか、うん、いつかまた…絶対にだぞーっ!」
 だまっていた源治が「ちきしょーっ! ちきしょーっ!」と叫びながら、太い幹をバンバンこぶしでたたき始めた。そのこぶしには、力の量だけ赤いものがにじみ出ていた。
 汽車は峠の奥へと消えた。
 武が村をふり返った。そして、かすれた声をふりしぼった。
「バカヤローッ! 村のやつらのバカヤローッ! バカバカバカのバカッタレーッ!」
 おれも叫んだ。
「バカッタレーッ!」
 ミッコも叫んだ。
「バカッタレーッ!」
 そんなおれたちを、後ろ手を組んだままのハッカケが、だまって静かに見上げていた。