ナナカマドの仲間たち 17.

 17.ほんものの船長

 おぼろだった太洋の意識は、二日ほどで元に戻った。
 頃合いを見て、おれたちは太洋を見舞った。おれたちには、どうしても聞いておきたいことがあった。なぜ太洋が、あれほどまでして常男を救おうとしたのか? あのときのおれたちは、自分を救うことさえままならない状況だった。どんな仲間だったとしても、自分以外の者に気を配れる状態ではなかった。
 それなのに太洋はどうして…。太洋が特別なのか? おれたちが薄情なのか? おれたちだれもが、心地の悪い日々だった。特に源治が…。
 ここに源治はいない。あいつは、それを口にできる状態ではない。常男に巻きつかれたのがふびんでならない。あいつはすっかり、打ちのめされてしまっている。源治のためにもおれたちは、太洋の心を聞きたかった。
「ちょっとの間、病室を空けるけど、あとをお願いね」
「はい。行ってらっしゃ〜い」
 太洋のお母さんが買いものに出た。
 ミッコが、それを待っていたかのように切り出した。
「どうしてなの? あんただって死ぬとこだったのよ」
 太洋は何も答えなかった。
「ああなったら、自分を助けるしかないじゃない。源ちゃんだって、ああするよりなかったのよ。そうよ。そうしなかったら、源ちゃんまで死んでいたんだもの。常男が泳げないなんて、あたしたち、だれも知っちゃいなかったじゃない。だから常男のこと、だれのせいでもないのと違う?」
 太洋はゆっくり口を開いた。
「父さんはカツオ漁船の船長だった」
「何それ?」
 話がいきなり飛んでしまった。
「父さんは、百トンの船に十八人で乗り込んで、カツオの群れを追っていた」
 太洋の目は、過去の真実を見すえている。だからおれたちは、太洋の話を聞くことにした。
「へーえ、お父さん、漁船の船長さんかあ。…あっ、それでなんだ。あんたの夢、船長さんになることだったよね」
「そうかあ」と里っぺも言った。
「太洋くんという名前、魚の宝庫としての大海原をお父さんが意識したんだね。世界を結ぶ七つの海、そこで生き抜くスケールを持った子に育ってくれって」
「名は体を表す…か。うん。その通りのスケールに育った」
 太洋は、信之の言葉を聞き流し、話をカツオ漁船のことに戻した。
「カツオってやつは何万と群れて、七つの海を駆けめぐっている。だから漁場はどんどん変わる。船長は水平線の果ての果てまで目をやって、海鳥の群れを探すんだ」
「海鳥? 魚の群れじゃないの?」
「鳥が群れれば、その下の海は小魚の群れだよ。小魚が群れれば、そいつを追ってカツオも群れる。そこが漁場さ。船長は、海鳥の群れ具合からカツオの数を読む。いい漁場探しは、船長の腕にかかっているんだ」
 太洋の目が輝き始めた。海を話すとき、やつの目はいつもそうなる。
「漁場を見つけたら、そこに船を走らせて、船底たっぷりの生きたカタクチイワシを投げ込むんだ。それから海面いっぱいに水をまく。バシャバシャ、バシャバシャ。半端じゃないぞ。水面が盛り上がるぐらいに放水するんだ。そうすれば、カツオがアワ立つしぶきを小魚の群れとカン違いする」
 ここで太洋はニカッと笑った。おれたちもつられてニカッと笑った。
「ここからだよ。おれがほんとうにやりたいのは。武は一本釣りって知ってるか?」
「知らねえ」
「吉松は?」
「おれは百姓の子だから…」
「カツオは、たいてい一本釣りだ。ギジ餌っていう餌に見せかけた針を使って、一本一本釣り上げるんだよ」
「でかいんだろう? カツオって」
「でかいやつは一メートル近くある」
「すっげ〜え! こんなでかいんだ!」と、武が両手を広げて見せた。
「それをさおで釣るんだ! かっこいいなあ、一本釣りって」
「父さんの船は違う」
 太洋があっさり否定した。
「何だ、おまえんとこは一本釣りじゃないのか」
 何となくがっかりムードがただようと、太洋は、それを横目にニカッと笑った。
「どこがおかしいの?」と信之が聞いた。
「父さんの船は撥ね釣りなんだよ」
「撥ね釣り?」
「うん。こいつは一本釣りよりすごいんだ」
「えっ、もっとすげえの?」
「どういうふうにすごいのよォ?」
 みんながひざを乗り出す。
「一本釣りは、釣り上げるたびに針から魚を外すんだけど、撥ね釣りは違う。さおをバーンと撥ね上げて、空中でスパッと外すんだ」
 ここで太洋は、毛布の中から右手を出すと、その手でさおを持つまねをした。
「いいか。さおに当たりを感じたら、それをだよ…こうやって、バーン!」
 そのとたん、太洋は「うっ」とうなって、撥ねあげた右手を抱え込んだ。
 息を止めて歯を食いしばり、「くーっ」と痛さをこらえている。
 おれたちはあわてた。
「やべっ!」
「どうしよう!」
「どこだ痛てえのは?」
「看護婦さん、呼んだほうがいいんじゃない?」
「よし、おれ呼んで来る!」
「おれも!」
 ドアに向かったおれと武に「待て!」の声。太洋だった。
「いいよ、呼ばなくて。…大丈夫。もう、大丈夫だから」
「だっておまえ…」
「ごめん、騒がせて」
「看護婦さん、ほんとに呼ばなくていいの?」
「うん、もう大丈夫」
「も〜う、あんまり無理して驚かせないでよね」
「そうだよ。おまえは病人…ってか、入院中の身なんだからさあ」
「おばさんの留守中に何かがあったら、あたしたちがうらまれちゃうじゃない」
「よろしい。わたしが代わりにやって差し上げましょう」と信之が言った。ひと味違った場面転換を得意とする男なのだ。
「こうですよね。海にたらしたこのさおを、バーン! ほら、こんなぐあいに撥ね上げましてね、うん、その瞬間、空中でカツオを針からスパッと外す!」
 仕草は口ほどになかったが、太洋は「そうそう」と言った。
「そのやり方なら、一本釣りで十本のところ、三倍の三十本は釣り上げられる」
「三倍かあ。それっバーン! 一本! それっバーン! 二本! たったったーっと三十本だ。かっこいいなあ。おまえ、それやってたの?」と、武も調子づいて言った。
「ばか言え。それをやるには、おとなだって何年もかかる。おれには十年以上も先のことだよ」
「おまえでも十年以上。そうかあ。吉松では一生無理だなあ」
「おれの名前を勝手に使うな!」
 太洋は、こっちのじゃれ合いを無視して続けた。
「でもやりたい。父さんは撥ね釣りの名人だった。おれだって名人になりたい。おれ、父さんみたいなほんものの船長になりたいんだよ」
 太洋は窓の外に目を移した。田園の先に幾重もの山が連なっている。太洋の目は、その山々のさらに向こうを見ているようだ。
「ある嵐の夜、父さんの船は大型船に当て逃げされた」
「えっ?」
「横っ腹をえぐられて、船は見る見る沈んでゆく。父さんは、寝ている仲間をたたき起こしてゴムボートに送り出した。最後の一人を送り出したとき、船は、父さんもろとも沈んでしまった」
「父さんもろとも?」
 太洋がミッコを見て「もろとも…」と繰り返した。
「でもさあ、父さんは、それで満足だったとおれは思う。みんなを送り出せたんだからな」
「死んだの?」
「うん」
「みんなを助けて、あんたのお父さんだけ死んだの?」
「それがほんものの船長だよ」
 太洋はここで首を左右にふった。やりきれない…とでも言いたいふうに。
「おれはダメだった。おれは父さんのような、ほんものの船長にはなれなかった」
 おれは、恐れるように聞いた。
「それ、…常男のこと言ってるのか?」
「…」
 答えが返らない。
「やっぱりそうなんだ。だったらあれは、おまえのせいじゃないよ。村のやつらが何と言おうと、あれは絶対、だれのせいでもないんだって!」
「そうよ。あれを太洋くんのせいにしたら、あたしたちはどうなるのよ。あんたどころじゃなくなっちゃうじゃない」
 太洋は、そんな里っぺにきっぱり言った。
「船が岸を離れたら、あとは船長の責任だよ」
「何よ、強情な人ねえ。あなた、お父さんそっくりって言われたんじゃない?」
「…あ〜あ、そうかあ」とミッコがひとりでうなずいた。
「それでなんだ。それであんた、ここに引っ越して来たんだ。海じゃなくて山にね」
「母さんは、おれを漁師にしたくないって…」
「分かるわよ。あんたのお母さんの気持ち」
 太洋が、うらめしそうにミッコを見た。それから、その目を窓の外に移すと「でもさあ…」と言った。
「でも何よ」
「でも、おれは海が好きなんだよ。どこに登ってもダメなんだ。この村からじゃ、まるで海が見えないんだ。父さんの海は、ずっと遠い先なんだよ」
 里っぺが「あっ」と言った。そして、ゆっくり大きくうなずいた。
「そうだったんだ」
「えっ、何? どうしたの?」とおれたち。
「太洋くんは、木登りが好きなわけじゃなかったってこと」
「何で? こいつ、いつも木のてっぺんに登っていたじゃん」
 武はそう言ったけど、信之は「なるほど。うん。そういうことね」とうなずいた。
 おれとミッコと武は、まだその意味が分かっていない。里っぺは、そんなおれたちを置き去りにして太洋に視線を戻した。
「あのとき落ちて来た紙っ切れ。あれ、鼻紙なんかじゃない。湿っていたけど、あれ、鼻じゃない。あれ、お父さんをしのんで流した太洋くんの…。いま気がついたわよ。だってそんなこと、あんた、何も言わないんだもの」
「あ〜ぁ!」とミッコも気づいたようだ。
「…あれかあ」と、 おれと武も前後して気づいた。
 太洋は窓の外を見つめたままだ。
 おれの脳裏には、あの日のことが鮮明によみがえっている。木のしげみの中から、固く丸めた紙っ切れが落ちて来たあの日のことが…。
・・・・○・・・・○・・・・○・・・・
「やいコラ、汚ねえぞ! 鼻紙なんぞ落とすな!」
「おう。ぬれてて、ごめんごめん」
「だから、汚ねえって言ってるだろう!」
「悪かった。それ、かわいたら、使ってもらっていいからな」
「けっ! なんだよ、あいつ!」
 ・・・・○・・・・○・・・・○・・・・
 あのときおれたちは、大樹を見上げて口々にののしってやった。てっきり太洋の悪ふざけだと思ったんだ。でも太洋は…。
 里っぺが、何かを隠すようにうしろを向いた。
 ミッコは、目線をあわてたように天井に向けた。だけど遅かった。あふれるものがポロリとこぼれてシャツをぬらした。
 おれの鼻もクスンと鳴った。
 太洋は窓の外を見続けている。