ナナカマドの仲間たち 15.

 15.にわかの荒天

 さあ出航。全員、所定の位置に着いた。きょうは本番に備えた練習だけど、いざ漕ぎ出すとなると、本番さながら胸の血潮が騒ぎ出す。
「じゃあ、行くぞ。ゆっくりでいいからな。せーのーっ」
 船長のかけ声に、信之と常男が唱和する。それに合わせておれたちが漕ぐ。
 イカダはゆっくり岸を離れた。
「せーのーっ!」
「よーいしょ!」
「せーのーっ!」
「よーいしょ!」
 たわいなく思っていたが、やってみると、櫂さばきはむずかしい。水をかく深さがマチマチだったり、速さもバラバラだったり、太洋以外は、全員どこかぎこちない。
「源治は早すぎ、ミッコは遅すぎ。里っぺの櫂は水にしっかり入っていない。力より、最初はリズムづくりが肝心だ。八つの息を合わせて行こうぜ」
 岸を三十メートルも離れたころから、太洋の助言が生きて来て、何とかリズムが生まれ始めた。
「そうそう。いいぞ。その調子だ」
 余裕が少しでも生まれると、周りの景色が見えて来る。とんぼ沼という名の通り、いくつものとんぼたちが水面すれすれを、行きつ戻りつ飛び交っている。
沼の南西のふちに沿って、単線レールが通っている。一日に四往復のローカル線だ。
「あっ、汽車が来たわよ。うちの村の人、だれか乗っていないかなあ? もしイカダに気づいたら、きっとびっくりするだろうな」
 汽車が沼のふちにかかると、ミッコが「おーい!」と叫んで手をふった。
「この冒険家たちが小学生だと分かったら、もっとびっくりだよ」
 常男も鼻高々だ。
 おれも(見て見て見てっ!)の気持ちで胸を張った。マゼランとかコロンブスとかの名前が浮かび、大冒険家になった気分だ。
 里っぺが声を張り上げた。
「やっほーっ! ハックルベリーの冒険だあ!」
 信之も叫んだ。
「めざせ、若者よ! ピーターパンのネバーランドへ! うん」
「そういうときまで〝うん〟をつけるな」
 イカダは行く行く、とんぼは返る。大きな沼のあるじはおれたち。八つの星が輝いている。
 岸からだいぶ遠くなった。
 チラリとミッコが上空を見た。
「さっきよりは雲が多くなったみたい」
「でもこれくらいなら、まずまずの航海日和だろう」
「そうさ。雲はわくもの、流れるものだよ」
 常男のかけ声が聞こえなくなった。さかんに空を見上げている。
「空にトンカツでも浮いているのか?」
 源治が茶化すと、「そうじゃないよ。雨、だいじょうぶかと思ってさあ」と、常男が北の空を指差した。
「だって、陽が射しているわよ」
「南は射しているけれど、ほら、北の空は真っ黒なんだよ」
「真っ黒?」
 漕ぐ手を休め、北の空を見上げた里っぺが「あらほんと」と言った。
「出航前は、雲一つなかったのにねえ」
「予報は晴れだったんだが…」
 太洋も気になり出したようだ。人差し指をしゃぶってピンと立てた。
「何してるの?」
「風向きだよ。…東の風。微風だなあ」
 家を出る前に、太洋はラジオの天気予報をチェックした。それによると、きょうは一日中晴れ。予報に絶対はないことぐらい理解しているが、いま見る南の空からは、夏の陽光が降り注いでいる。(万一のことがあるにしても、あとしばらくは問題ない)─そう考えてもおかしくはない陽射しである。だから太洋は、この時点での練習打ち切り指令を出さなかった。
「せーのーっ!」
「よーいしょ!」
「せーのーっ!」
「よーいしょ!」
 イカダが沼のほぼ中央にかかった。
「ちょっと、いやな感じ」
 ふたたび北の空を見上げたミッコが、顔をくもらせた。海のことは知らないが、山には山の感覚がある。ミッコの言う「ちょっと、いやな感じ」とは、山育ちが肌で感じる素直な気持ちだ。
 里っぺが「えっ?」と頭に手をやった。
「うそ! ポツンと来たわよ。何だか風も変わったみたい。ねえ、船長さん、だいじょぶ? 山の天気って、一気に手のひらを返すことがあるんだけど」
「うん」と船長がうなずいた。太洋も異常を感じたようだ。
「航路を変更しよう。イカダを左に向けてくれ。南の岸を目指すとしよう」
 船長の指示でイカダの進路が南に変わった。船長からのかけ声も早くなった。
「そーれ!」
「わっせ!」
「そーれ!」
「わっせ!」
 逃げるイカダを追うように、北から雲が迫って来る。
「そーれ!」
「わっせ!」
「そーれ!」
「わっせ!」
 雲がグングンかぶさって来た。漕ぎ手はあせる。あせれば力が分散して、イカダの進路が定まらない。速度も逆に落ちて来る。
「気持ちを一つに!」
 太洋の声は風にさらわれ、全員の耳に届きづらくなっている。
 ついに上空、真っ黒な雲。それが見る見る垂れ込めて、一気に日没を迎えたかのよう。
 風がグオーンと吹き上げると「やだっ!」と里っぺ。
 ついに、恐れるものが来てしまった!
「来た! すごい大つぶ!」
 常男も叫んだ。
「突風だ! わーっ、飛ばされる! 山嵐だよう!」
「おおっ!」と太洋。予想もつかない急変である。山特有の気象のすごさを、太洋が初めて知った瞬間だった。
 出航時点では、あれほどおだやかだった南の風。それが、いまは北風となって吠えている。ポツンと来たさっきの雨も、たった数分のうちなのに、天の川が決壊したかの猛雨である。
「風に合わせろ! 風下だーっ!」
 グオンドドドーッ! グォーン!
 地鳴りのような音がひびくと、波がうずを巻いて立ち上がり、イカダはギコギコ鳴き叫んでいる。景色は豪雨の中にかき消され、滝ツボの中に巻き込まれてしまったようだ。まくり上げて来る風は、右と思えば左から、方向さえも読ませてくれない。
「ふり落とされる!」
 漕ぎ手たちは櫂を捨て、つかまり棒にしがみついた。みんなの願いはただ一つ。怒り狂って吹く風よ、どうせ吹くならその風で、イカダを岸まで届けてくれ!
「おれ、ほんとは泳げねえんだ! やだよ! 怖いよ! 助けてくれ!」
 常男の叫びを太洋は聞いた。ここに来て、まさかこんな叫びを聞こうとは!
 源治が怒鳴った。
「ばかやろーっ。いまさら抜かすな!」
 自分を守ることさえきびしい状況下。仲間を助ける手立てなどない。
「みんな落ち着け! 身を低くして、つかまり棒を絶対放すな!」
 体を打つのは非情の雨か。舞い立つしぶきが、つぶてとなって全身を打つ。
 ピカッ!
 同時に雷鳴がとどろく。光りと音の重なりは地獄からの招待状だ。イカダがグワ〜ンと傾いて、「きゃーっ!」とだれかが悲鳴を上げた。
「常男が落ちたぞ!」
 バランスを失ったイカダが、波を食らって立ち上がった。
「わーっ!」
「いやーっ!」
 垂直となったイカダから、バラバラと落ちる乗組員たち。イカダはそのまま裏返へり、残る乗組員たちも、荒れ狂う波の中にたたき込まれた。
 岸は見えない。イカダも消えた。頼れるものは、親からもらった体力一つ。しぶきの吹き飛ぶ先が風下。風を背にして泳ぐだけだ。
 泳げない常男が、抜き手をかこうとした源治の腕にしがみついた。
「わっ! ばか! 離せっ! ぶっぶっぶわーっ! このやろう!」
 顔をなぐり、足のかかとで腹をけり、源治は常男のからみをふりほどくと、風下目指して死にもの狂いの抜き手をかいた。
「たっ助けてくれーっ! ぶわっ、ぐはっ、助けてーっ!」
 転覆イカダはどこなのだ! 救いの神はどこにいる! つかまるものを失って、常男は一人波間でもがく。
 そのえり首を、グイとつかむ手があった。太洋だった。
「常男、落ち着け! 落ち着くんだ! ダメだ、おれの手に巻き付くな! 手を離しておれにまかせるんだ! 暴れなければ、おれが支えているから大丈夫だ! 落ち着け、暴れるなっ!」
 死のふちの常男には、太洋の叫びが通じない。
「腕を離せ! おれのシャツをつかめ! 言うことを聞くんだ!」
 どう叫んでも、常男は太洋の腕を抱き込んだまま、もがき、叫び、沈み、浮かび、そのたびに水を飲んだ。
 腕の自由を奪われながらも、太洋は常男を見放さない。二人の体を支えているのは、あおり続ける太洋の足だけ。雨と風と荒波は、そんな二人を木の葉のようにもてあそんだ。
 ああ、怒涛と絶叫。
 ああ、奈落と絶望。
 ああ…。
 苦しみ抜いた常男が、やがて闘いをやめて静かになった。
「おい、常男! 常男! 常男―っ! もうすぐ岸だ。目を開けろ! 常男!」
 あと十メートルほどの位置。岸がぼんやり見えている。
(岸だぞ。岸が見えたぞ)─と、これは太洋の心の中で放つ声。もう口からは発していない。腕の自由のない闘い。ハンデがあまりに大き過ぎた。意識がだんだん薄れて行くのを、太洋は、頭のすみで感じていた。
(岸なのに…)
 そこまでが、闘う太洋の限界だった。