ひとしずく。その52

 七十歳を超えたあたりから、最終章の過ごし方を考えるようになった。自分で自分のことが出来なくなったら、つまり、一人では散歩も無理、風呂も無理みたいなことになったら、妻には「施設に入れてくれ」と言っている。
 だが、この施設というやつが厄介だ。現状を知る限り、どこでもいいというわけにはいかない。友人の親父さんは「健常のうちに」と、スタスタ歩いて入所した。ところが入所後、たった二か月で歩けなくなった。聞けば一人での散歩は許されず、風呂も部屋から裸のままストレッチャーで運ばれる始末。一年も経ずして亡くなった。
 僕の親父も85で施設に入った。面会に行ったら、幼稚園のように椅子を車座にして、紙風船だかの受け渡しゲームをやっていた。「あー上手、上手」とか「すご〜い、まさちゃん、高く上がったねぇ」とか、孫みたいなおねえさんに、園児のごとく扱われている。
 僕はその光景にゾッとした。老人=幼児の決めつけ。あんまり呆れちゃったらしく、親父も一年そこそこで、この世から退散してしまった。
 自らの足をもがれ、人格を「無」にされ、あんな小馬鹿になんか僕はされたくない。いえね、僕が兎に角言いたいのは、施設というより社会すべてに対してなんです。「老人は幼児に還るんだ─という間違った感覚を捨ててくれ!」─と、社会に対してそう叫びたいのです。
 幼児は、知識を得る出発点に立っている。対する老人は、施設のおねえさんたちより知識・経験を積んだ上で、いま人生の終着点に立っている。黙って従っているかに見える老人たちにも、人間たるプライドが脈々と生きている。だから内心、憤慨している。怒れるあまり「憤慨ボケ」で死んでしまう。そんな終わり方、誰が望むというのだろう?
 いつかみんなが通る道。花の道をイバラの道に繋げてはいけない。
 そこで今日のひとしずく
『人生のけじめは、青春、朱夏、白秋、そして能動的エンディング』