ひとしずく。その47

『ああ玉杯』は第一高等学校の寮歌である。『都ぞ弥生』は北大の寮歌である。両歌の作詞・作曲とも当時の学生によるものだ。僕らの世代者は、例えば僕のように戯れにも東大の門さえ潜ったことのない人間であっても、『ああ玉杯』他、多くの寮歌や校歌をヘロヘロ唄える。
都の西北』『若き血』『白雲なびく』…当時の学生たちは、粗野な服装(蛮カラ)に破れ帽子、朴歯の高下駄を履いて、何処を構わず、寮歌、校歌、応援歌を蛮声上げて放吟した。
 周囲の大人たちは見て見ぬふり。彼らが粗暴と見えたからではない。学生たちは、バカな振る舞いをやっていると見せて、一方では天下国家を弁々と論じ、国の末を深考するなど、大人たちからすれば一目置かれる存在だったのだ。
 翻って今の学生。AKBだかにドドッと走るが、天下国家を論じるどころか、新聞ひとつ読んでいない…(と書かれても怒りもしない)。まったく、大人だか子どもだか判んなくなっている。
 だからなんだ。結果として、アホな論議が巻き興っている。国民投票権は18歳にすべえ。でも選挙権は18歳じゃ早かんべ。そっちは20歳のままでいい。じゃあ少年法での刑事責任はどうするんけ? …なんてチャンチャラオカシイ。「これについては大人にして、こっちについては子どもにしよう」なんて、そりゃあ〜た、ふざけ過ぎてやしませんかね。
 昔は15歳で元服した。いえいえ、そうしろなんて言いませんよ。言いませんけど、決めた一線があるとしたら、結婚やクレジット契約に関する親の同意も、罪の償いも、み〜んなその一線に揃えなくちゃオカシイと思う。「わたし、あるときは18歳、またあるときはハタチなの」なんて、多羅尾伴内だって笑っちゃう。
「でも悪いのは、真っ当な教育を施さなかった社会であり親なんだから…」と仰るあなた、それは確かにそうなんだけど、だからって、みんなしていい子ぶっているうちは、いつまで経っても子どもは大人に成り切れませんぜ。
 熊は子どもを2歳で突き放す。犬は15年生きるとして、早1歳で成人(成犬)する。人間に限って、いつまでも「子どもだ、子どもだ」では、その子の限られた人生の中の「個人としての独立した人生」を奪い取っているに等しいことなのではありませんか? 成人式に酒飲んで荒ぶるのが大人なんだと勘違いさせていているのは、皮肉にも、大人自身なのではありませんか?
 何一つ責任を与えないまま「自立しろ」では、そりゃ〜あアナタ、子どもだか大人だが判んない連中が不憫ってもんじゃありませんか? 酒もタバコも結婚も選挙権も被選挙権も刑法範囲も、18歳からは何から何まで全て大人。そうしなくては可哀そうだと、僕は思うんですけど…どうでしょうねえ?
 そこで今日のひとしずく
『責任を持たない人生期間の長短が、その人間の実質的人生期間の長短を支配する』