ゆっくりの奨め

 上尾の自宅から最寄り駅まで約二キロ。現役時代の通勤は、当初妻の車による送迎に頼っていた。しかし、好きな酒を好きに飲んだ日まで深夜の迎えを請うのは、マナーに欠けて心地よくない。そこである時点から、駅までを自転車に切り替えた。結果としてそのことが、僕のその後の人生に色彩を添えることになった。
 車から見る景色というものは「漠然としたものが飛び去るばかり」で色を持たない。フルショットばかりで、ズームインが利かないせいだろう。
 それが自転車に替わって改善された。早春には真っ赤なボケが眼に入るし、それが終わると純白のユキヤナギが登場し、黄色いレンギョウもその存在を主張して来る。家々の花壇が、競って日々の色彩を演出するのだ。
 自転車は、そうした観賞の楽しさを教えてくれたわけだが、それを知ってしまうと、もっとじっくり観賞したい欲望が生まれる。自転車でも速過ぎるのだ。
 そこで僕は、駅までの自転車を更に一段ギアダウンさせ、歩くことにした。「鳥の眼」から「昆虫の眼」へのチェンジである。昆虫の眼は楽しい。地味なハーブ類ばかりか、ツユクサやイヌフグリといった雑草までもが癒しの対象に加わったのだ。
 大切なものは、ゆっくりじゃないと眼に入らない。がっついたら損。慌てる者は貰いが少ない。ゆっくりがいい─と僕は強く思う。
 それなのに、どうしてみんなは急ぐのだろう? 強気の御仁たちは大合唱する。「より強く、より速く、より便利に、より豊かに」…と。何でもカンでも目まぐるしく進歩はするけれど、それって何のため? 豊かさのため? 違うでしょう。僕は、老若男女の心が早死にするのではないかと心配する。
 例えば原発。例えばIT。例えばリニア。「東京─大阪間を一時間で」というスピードに、癒しの心が壊れることなく付いて行けるのだろうか?
 僕の乗りもの感。
 列車とは、細やかな自然を無視する乗りもの。
  特急とは、ちょっと偉く感じる乗りもの。
  新幹線とは、ひたすら仕事を抱え込む乗りもの。
 リニアとは、時間と心をズタズタに切り刻む乗りもの。
  ついでに僕の通信感。
 手紙とは、モノの心を伝えるもの。
 速達とは、知らせるべきを知らせるもの。
 メールとは、「いいこと」以上に「いけないこと」を伝えるもの。
 僕は那須山中でのゆっくり生活。〝文明おばけ〟の虜にはなりたくないもんでね。