顔のある散歩道

 六月の梅雨入りから秋の長雨まで、僕の散歩道は混雑する。…と言っても、人で混み会うわけではない。足の踏み場を求めて、ピョンピョン飛び跳ねながら歩く状況が生まれるという意味。
 路面を占拠しているのは、カエル、いも虫、ヘビ、モグラや、食用のエスカルゴかと見紛うばかりに大きなカタツムリ等々。生きているのは二割程度で、ほとんどは輪禍の犠牲となっている。
 午後の散歩時は比較的乾燥が進んでいるから助かるが、朝は要注意。うっかり踏むと滑るし、踏まなくても、内臓が飛び出していたりして気持ちが悪い。お靴も汚れる。
 犠牲のトップはカエル。山のカエルは青くない。土色というか、食用ガエルみたいな色。そいつが赤やピンクの肉肌を晒し、あちらこちらで成仏している。
 それを見るにつけ想い出されるのは、昔入った小料理屋さんでのこと。そこのメニューに「カエル焼き」というのがあった。幼稚園児だった下の娘が「これ!」と指差したのだ。妻は絶句。座ったばかりの腰が浮き、逃げ出さんばかりである。
 僕が「それ、ペットじゃないよ。食べるんだよ」と娘に言ったら、承知の顔で「うん、食べたい!」と喜色の声。妻が気持ち悪そうに僕を見て「親子ねえ」と暗く呟いた。
 悪食のような言われ方だが、僕は決して悪食ではない。ただ、「人が食べるものなら、自分でも食べられる」という信念はある。これまでも、ヘビの輪切り焼き、蟻んこの乾煎り、ブタの陰茎など、ある程度のものは食している。
 少々度を超していたのはポリネシアの酒。大きな擂り鉢状の器に泥を入れ、それに「ペッペッ」と唾を吐き入れながら藁でグシャグシャかき回す。クジャグシャ、ペッペ、グシャ、ペッペ…。腰蓑一つのおっちゃんが気長にこれを繰り返すうち、唾の菌が発酵して、幻の酒が出来上がるという寸法。そんな製法をつぶさに見たあと、出来上がったものをその場でググーッと飲んだ。
 言いわけがましいが、そんなもの、好んで飲んだわけではない。演出上、レポーターに飲ませたい。そう考えたとき、まずやって見せるしかなかったのだ。謂わば仕事上でのこと。悪食なんかとは違う。
 次女は「カエル食べたい!」と言ったけど、長女は正反対の性質。「顔のある食べもの」は徹底的に嫌う。切り身の鯛は食べるけど、尾頭付きやかぶと焼きの鯛は食べない。鯵も刺身なら食べるけど、姿づくりのたたたきは食べない。子どもの頃、食卓に出たシラスを見て「顔がいっぱいだからイヤ」と言った時は、「はて?」と最初のうち、何のことだか解らなかった。
 不惑の四〇の今となっても、顔いっぱいのシラスは食べない。そのくせ不思議なのは、イクラやタラコが大好きなのだ。粒の一つひとつに、これから顔が形成されるところまでは、想像が及んでいないらしい。
 その長女、那須に来ても、じっとりとした森の散歩道は歩かない。道の至るところに顔がへばりついているからだろう。僕は今日もその道を、顔を踏まないように跳ねて歩く。